明治元年四月二十四日、オタルナイの博徒、小商内渡世、無宿者など一〇人がカツナイ川端に会合し、諸役の減免等を願い出ることを協議し、多数の漁民とシノロ村の浪人(武術教師)下国来蔵(雪之進)・荒谷兵三郎に参加を求めた。翌閏四月三日には二人の浪人も加わって協議がなされ、四日に銭箱で八〇人の漁民を集め、途中人数を増して同日夜半オタルナイの市街地に入った時には、五〇〇~六〇〇人の一揆勢となっていた。
一揆勢は御用所を襲ったりしたが、漁民の多くは解散し、六日にイシカリ役所の調役樋野恵助らがオタルナイに到着したことで形勢は逆転し、七日に官側の襲撃により、残った一揆の中心勢力一七人の若干が捕えられ、斬られ、大半は逃亡した。この騒動で下国は負傷して死亡、荒谷はその首を取って出奔、行方不明になった。