ところが、一年間の経過にして早くもこの政策は破綻するのである。その原因は国家財政の窮乏により、開拓財源の補給が困難となったからである。黒田は六年六月の達で、「治所ノ区画殖牧ノ方法ヨリ新道開鑿等ニ至リ、皆先務ヲ以之ヲ急ニスト雖、施行ノ際或ハ誇大ノ弊ヲ免カル能ハス、稍悔悟スル所アリ、因テ顧フ自今ノ事痛懲猛省シテ其源ヲ深クシ基本ヲ固クセサル可ラスト」(布令類聚 上 職制)自ら吐露し、そして新規の事業の停止を命じて、開拓政策の再編成を宣言するのである。
六年十一月に至り、黒田は新たな開拓施策を明示した。それは、
夫開拓ノ大基本ハ先道路ヲ開通シ船艦ヲ備具シ転運輸漕ノ便利ヲ得セシメ、地質物産ノ検査ヲ審ニシ、以テ利用厚生ノ道ヲ尽ニアリ、今ヤ転運輸送粗其便利ヲ得、地質物産亦其検査ヲ経レハ、此時ニ及テ勉励此ニ従事セサル可ラス、将ニ来春ヲ以施行スル所アラントス
(同前 上 物産)
とあるように、開拓の先務とする運輸の便、物産の調査等の開拓の基礎事業は完了したとして、翌七年よりは政策の主体を「利用厚生ノ道」に転換することを告げている。そしてこの「利用厚生ノ道」とは、「人民ヲシテ安堵繁殖ヲ得セシメル」ことにかかり、さらにその具体的指針として示しているのが、「衣食ノ用ヲ資シ、輸出ノ利ヲ開クニ過サルノミ」と、自給の体制と移輸出の利益を確保しうる諸産業の振興であった。かくしてこの指針を基本とした開拓使の殖産興業政策が展開していくのである。これはまた、明治政府による明治前期の産業政策と軌を一にするものでもあった。