『開拓使事業報告』によると、札幌本庁管下の五年の家屋建築費は七万七九六一円余、六年で一四万四二九〇円余と順調に伸びてきているが、七年には五一九二円余である(この三カ年の会計年度は『開拓使事業報告』によると一月から十二月である)。道路工事では五年は二万七二円余、六年は二万五三九一円余、七年は二七二八円余である。六年から七年への変化は、確かに極端な工事費の減少である。札幌へ職人・人夫などを連れ込んでの工事であるから、工事がなくなると市中の景気に響くのは当然である。しかしこれでみると明治七年の不況である。
六年春から工事は再開され、開拓使の投資金額は五年の二倍である。しかしすでに市中では空家が目立ちはじめていた。そのため松本は六月十二日には下僚たちと「市中瓦解ノ勢ヲ予シメ止ルノ儀」について内談している。その原因について金井信之は、「此の地移住の商人共、銘々蓄財を以て出店仕候者に無之、多分は昨年中数万の金穀市中へ流通、加之加籍の者へ貸費営繕被仰付候に付、右の渇望一時増加の勢に候処、元来細民の義に候へは、纔の畠を以て其日生活を計り、農業等の着意は更に無之、只管官金を仰き候輩に候処、当年の御出費は昨年に比較難仕、殊更に建築等に至り候ては、不日成功、随て人数も追々引揚候哉の噂も有之、就ては当春来他邦より入込候市中の人数も漸々帰国の形勢、旁現今の姿にては、当暮越年の分も、次第減少他場所え転住可致も難計」と指摘している(札幌滞在事務取扱備忘誌 松本家文書)。昔話などで札幌へ来た商人のことを「五割商人」と呼んでいる。この金井の指摘は、一見するとその状態を示しているように思われる。