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果樹園

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 六年十月開拓使本庁舎が完成したが、東西二六四間、南北三四四間の構内(九万八一六坪)の大部分はだだっ広い空地であり、松本十郎大判官は同年十一月早速「本庁廓内五角形ヲ除クノ外地所草野其儘差置候テハ甚不体裁ニ付、当分ノ内開墾要用品蒔付可然ト致評議、即今着手農牛馬ヲ以鋤キ方致サセ候積」と上局に上申し、同年先月注文した武州産岡稲(陸稲)をさらに八石と、春種大小麦六石(西洋種があれば加えて)の送付方を東京へ依頼した。ほかにすでに当地で試験済みの玉蜀黍(とうもろこし)も当地あり合わせのもので間にあわせるといっている。
 しかし本庁構内の主作物は各種の西洋果樹であった。明治六、七両年に構内空地の大部分は開墾され、七年にその内の五万八五二〇坪が果樹園となった。七年から八年にかけて東京官園から梅・桜(桜桃)・桃・李・杏(あんず)・林檎・梨などの類四七〇〇株余が移植された。その大半の種類が適作と試験結果に出たが、すべてが十分な結実を見たわけではない。
 李の結実がもっとも早く十年には開花、結実し、その後の収穫量も多かった。梨、林檎は十二年にはじめて結実し、その後の成績もよい方に属する。杏と桃は成績がもっとも悪く、桃は栽植を廃止した。総じて寒さと積雪による枯損、うさぎ・ねずみによる枯死などの被害をうけたが、札幌の果樹地帯の基盤が、新しい都市の真中の開墾地に築かれたのであった。園地の樹間にいくつかの穀菜を植えたが、その中で十年以後米国種の扁豆・豌豆・蚕豆、石狩郡当別村からの大豆などの成績がよかった。しかし後には蔬菜の栽培はやめ、洋種の大小麦の間作にしぼった。これは折からのビール醸造原料に供し、また農民へ払い下げられて品種改良の一助にもなった。十二年の本庁舎焼失のあとは、文字どおりの果樹園・麦畑になったわけで、立派な土塁に囲まれた農園という風景ができあがった。

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写真-3 本庁焼失後の構内の麦畑(北大図)