こうした中で、質屋は庶民の重要な金融機関であった。四年に〓酒井吉左衛門が質屋を営んだのが札幌質屋の始めとされる。八年八月には向井嘉兵衛が南四条西二丁目に〓質店を営んでいることが知られている。これは六年の不況期に松本大判官が庶民金融機関施設の必要性を認め、嘉兵衛に勧めたためとされる。嘉兵衛は質屋を妻甲の名儀にして自分は古着商を営んでいる。以後質屋の普及とともに質流れ、家財処分の者も現われ、したがって古着、古銅鉄商が発生し、その売買には盗品、詐欺取得の伴うものも見られた。そのため開拓使は十一年一月三十一日付で、質屋古銅鉄古物渡世取締規則を布達した(布令類聚)。なおこの年札幌本庁管内に質屋五軒、古着古道具商三七軒が営業している。十五年には清水盛信を三業(古物・古銅鉄商・質屋)取締役とし、業者の保護、取締りに当たらせた。不況下十七年五月九日には質屋取締条例細則を定め、山崎孝太郎をその取締りに当たらせている。この時市中の質屋は一一軒であった。