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東本願寺別院

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 現如法嗣一行の函館での協議の結果、別院創立のため四人が任命され、彼らによって同年十月に草葺きの仮堂が完成した。ついで翌四年に越後国蒲原郡横越村の光用寺旧本堂を移し、十月に完成させた。
 翌五年十二月、同管刹輪番の名で当管刹を暁野本願寺(あけぼのほんがんじ)と唱したい旨願い出た。暁野とは、同年二月に「管刹所より埋葬地之辺」(地理諸留 道文六五九)までに付された地名である。これに対して開拓使は翌六年一月に「右ハ承届ケ可然哉」との意見を付して教部省へ上申したが、同省は「右掛所之儀ハ、同寺宗法為取締設置之道場ニテ、寺号相称候儀ハ難聞届」と却下した。教部省としては新寺創立に対して、依然厳しい態度をとっていたものと思われる。なおこの当時、本願寺派が「管刹」と呼んでいたものを、官側は「掛所」(この場合は別院の資格のない支院をさすと思われる)と記している場合が多い。しかし九年十月、本山によって管刹を別院と改称することとなり、札幌の管刹も別院と改められた。さらに十四年六月、宗派名を大谷派と改めたことにより、真宗大谷派本願寺札幌別院となった。

写真-4 真宗大谷派本願寺札幌別院
移築時の原形をほぼ保っているといわれる(北海道毎日新聞 明治24年5月1日付)

 なお本願寺の移民取扱法について、十文字龍助はその『日誌』中、農民扶助として米一日六合、同寺の印鑑をもって買いに来る者には二割引等と具体的に記述している(四年六月十八日付)。かなりに周到な方法といえよう。