寺院の前段階といえる説教所についても、この時期いくつか設置された。まず十二年十一月十四日付で、真宗東派本願寺役者代の曾我信彦ほかの名で、「琴似村并近村本宗帰依之人民多分有之候処、未タ寺院無之」(寺院教導書類 道文三一二五)と願い出、同月許可された。のちの琴似村の浄恩寺である。
ついで十五年六月、やはり真宗大谷派から苗穂村五五〇番地に説教場開設願が提出され、八月十六日付で許可を得た(札幌県治類典 道文七四〇八)。のちの法国寺である。
また、のちの教願寺は、八年から東本願寺札幌別院が毎月篠路村に出張布教を行ったのを起源とするが、説教場建設年は明確にし得ない。ただ同別院文書中、十九年に篠路村説教場留守居申付け史料があることから、おそらくこの頃に説教場が設置されたものと思われる(寺院説教場関係 東本願寺札幌別院)。
このほか、『豊平町史』には、三十五年寺号公称の真宗本願寺派の福住寺について十一年頃から説教所のあったことが記されているが、同派別院設置の関係等から信じがたい。また説教所設立以前の布教活動についても、後述の各宗派の出張布教以外は信頼性が必ずしも十分でないのでここには記さない。