函館に最初の拠点を置いたハリストス正教会は、仙台や東京に進出し、六年の高札撤去前後には政府の国民教化政策に対抗して教線を拡げていったが、札幌での宣教(伝教)が確認されるのは、十四年になってのことである。『大日本正教会公会議事録』(明治十四年七月)に、函館復活教会のロシア人司祭ディミトリィの下にいた副伝教者パワェル細目の伝教を示す「(十四年)五月、パワェル細目、福山ヨリ帰リ直ニ札幌ニ伝教ス」という記事がそれである。ここでは札幌は、函館復活教会傘下の講義所の一つに数えられている。また十五~十六年の『公会議事録』に、十五年一月細目副伝教者が札幌より帰るとあり、札幌地方で信徒数九人との数字が挙げられている。すでになんらかの信徒集団の存在を推測させるものがある。
もっとも、『札幌正教会百年史』は、十七年六月に小樽から移転してきた筆屋のマルク阿部多美治が、氏名の明らかとなる最初の札幌定住の信徒であるとしている。十月には函館を本拠としている司祭テイト小松韜蔵が根室から札幌に巡回し阿部多美治を訪問し、十八年から二年間は、伝教者イリヤ佐藤虎治が札幌の伝教に従事している。十九年には余市在住のイオアン石川吉太郎が札幌における正教会最初の受洗者となった。この年は札幌で六人の受洗者をみた。ただ佐藤虎治は、札幌のほか幌内・小樽などを含む広い地域を担当しており、札幌定住の伝教者ではなかったようである。いまのところ札幌における当時の信徒数、講義所、集会の状況などについては、断片的な事実しか伝えられていない。