開拓使工業局管理工場のうち鉄工関係工場が合して札幌鉄工場となったことは既述した。二十年五月、深野正之助に三年間利益の五パーセントを徴収することとして貸下げられ、翌年九月鉄工場内の土地、家屋、器械、貯蔵器等すべてを六八二円四五銭六厘六毛とし、即金で同人に払下げられた。二十四年谷七太郎に譲渡され、爾来札幌器械製造所と称し、ついで三十一年柴田勝所有となり、規模を拡大し製造所を模型鋳物、仕上げ、旋盤、錬鉄の五工場に分け、農具類を主とし、汽車用品、木挽器械等の製造も行った。作業員は技術長二、技手補一、図工一、職工七〇、定夫七、ほかに帳場七人であった。三十年の総収入は当所製作品並びに鉄材、セメント等の販売を合わせて七万二〇〇〇余円、支出は六万八〇〇〇余円であった(殖民公報二号)。