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酒類醸造場

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 麦酒、葡萄酒、洋酒等の醸造は開拓使によってなされたが、日本酒の醸造は始めから民間経営であった。四年に松前回りで札幌へ来住した能登の人、柴田与次右衛門が現在の丸井今井あたりで濁酒を醸造したのがはじめとされる。その後佐野平三郎刀根孫四郎本郷八左衛門笠原儀左衛門多田市太郎玉木伊八郎朝山平助大湊市助本間長助藤井喜三郎らが来て酒造を始めた。初期の醸造高は明らかでないが、十七~十九年の醸造高は表6のようである。
表-6 酒類醸造高(明治17年~19年)
醸造高
清酒濁酒焼酎白酒合計
明治17年1541石444石6石2石1993石
同 18年36971477175191
同 19年43802638267044
札幌県治類典』より作成。

 なお十八年度の醸造人は二六人であるが二十四年には三七人を数え、醸造高も一万石を超えている(札幌県治類典)。
 十八年、札幌の清酒醸造人らの友誼団体として札幌酒造懇親組合が生まれ、これが二十年に札幌酒造組合に改名されるが、これら醸造人はだいたい年間清酒一〇〇~二〇〇石、濁酒五〇~一〇〇石生産の中小企業であった。しかも酒類の密造の横行により税務署の係官が調査に入り、まじめな業者はその厳しい検査の煩に耐えかね、また脱税酒の密売により、納税酒は販路を狭められるなど、二十年の不況下で販売も思うようにいかないとして、柴田、笠原、本郷、山本、三浦、山崎、中川ら八人の企業合同が企図され、資本金四万円、年生産三〇〇〇石の札幌酒造合名会社が設立された。これが後の日本清酒株式会社の母体である(日本清酒株式会社四十年史)。