二十七年一、二月の札幌の金融は、例年の如く商況沈静のため緩慢に推移した。しかし三、四月以降は、鰊などの漁期に際したのと農業着手の準備に入ったのとで資本の需要が増し、金融の動きも繁く金利も高くなってきた。六月には府県金融逼迫の余波を受け貸付金利が高騰し、一〇〇円につき日歩四銭以上となった。それも東学党の乱についで清国と本格的戦争に入る七、八、九の三カ月は、船舶の徴用で府県との航路が止まり、小樽港では貨物が埠頭に積まれたままで換金できず、各銀行もまた荷物為換及び貸出しを引き締めたため、金融がますます逼迫してきた。
はじめ札幌ではその影響も小樽ほどではなかったが、札樽の密着した関係から商売も銀行も次第に影響が出はじめ、通貨は小樽に吸収され札幌も逼迫してきた。一時は利子も一〇〇円につき日歩五銭、低くても四銭以下にならない状況で、月利もこれに準じて高くなったのにもかかわらず各銀行は貸出しを引締めたため、預金は引出しの一方に傾き金融上恐慌の状況を示した。
農産物収穫搬出の十、十一月段階に至ってやや物資運送の便がゆるんできたが、年末になって日清戦争の先々を警戒した府県の資本家は、毎年貸出す漁業資金を投入しないため、やや引き締まって一時金利が高騰した。しかもこの年に三井銀行、第二十国立銀行両支店の閉鎖・引揚げがあり金融に不便を生じたが、屯田銀行のこの際の増資は好結果を得た。