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後期兵村の給与地

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 新琴似兵村では入地当初(二十年入地者は五月二十日付、二十一年入地は五月二十六日付)四〇〇〇坪の住区画を給与されるが、内一五〇坪が通路を含めた宅地で、残り三八五〇坪が農耕目的地である。これを成墾すると六〇〇〇坪の追給を受けることになるが、給与地配当調の日付は入地時と等しいので、あるいは同時一括給与だったのか。六〇〇〇坪が一区画にまとまっていたのではなく、二〇〇〇と四〇〇〇坪だったり、二〇〇〇ずつ三筆、二〇〇〇、三一〇〇、九〇〇坪の三筆という人もまれにいた。二十三年改正でさらに五〇〇〇坪の追給を九月一日付で受け一万五〇〇〇坪となった。この土地がいずれも住区画の周辺に集中していたのは幸いで、全給与地の完全な自家耕作が可能な条件下にあった兵村といえる。
 篠路兵村では入地時四九八〇坪の住区画を給与されるが(二十二年七月十五日付)、内一五〇坪が通路を含む宅地で、残り四八三〇坪が農耕目的地である。これを成墾すると住区画に接する五〇〇〇坪の追給を受ける人が多かった。その用地として篠路村内に二二〇画(のち三画増)、花畔村に五四画が準備されたが、一画五〇〇~二〇〇〇坪の小面積のところもみられたので、一回目の追給で一万坪に近づいた人はわずかである。この追給は入地の翌二十三年四月から始まり、ほとんどが二十四年にかけ給与を受けたが、まれには二十六~二十九年まで遅れた人もいる。二十六年からさらに新琴似兵村の北西に隣接する二六画を給与地に充てたが、一万五〇〇〇坪にはほど遠く、用地確保難におちいり、ついに石狩川右岸当別村に一九九画を測設して追増給地とした。ここも当然農耕目的地だが、橋のない大河を渡って日常住居から通い耕作することは不可能で、数字を合わせる形式的な手続きだったと言わざるを得ない。