既述の屯田兵村の場合以外にも、いくつかの私立小学校あるいは小学校に類する各種学校が設立された。これは公立小学校の不足、あるいは小学簡易科による学力低下への批判から発したもの、さらに貧しい家の子弟への対策といういくつかの面があった。
まず十七年に休校となっていた敬業塾(館)は、二十一年三月に再び開校し「高等科程度」とし、二十三年一月に普通小学校の高等科を併置した。また二十二年には小学校に類する各種学校として育成小学校が設立され、のち高等科もおき、三十六年の校舎焼失まで続いた。さらに二十三年には時習館が設立され、翌二十四年には附属小学校を付設し、無月謝とした。三十二年に開設した私立幌南学校も、貧困家庭の子弟の教育を目的としたものであった。
貧困子弟の教育としては、しかしまず札幌農学校教授新渡戸稲造によって創立された遠友夜学校を挙げるべきであろう。新渡戸は欧米留学前から貧窮問題に強い関心を持っており、二十四年帰朝後も貧しい両親を持った子弟に対する夜学校開設の意思を持っていたが、たまたま夫人に米国から遺産が送られたのを機に、二十七年一月、南四条東四丁目に遠友夜学校を設置した。同校ははじめ週二回、夜二時間の授業であったが、のち毎夜一時間とし、教師は札幌農学校生徒が奉仕して、三十年に新渡戸が去ったのちも長く続けられ、昭和十八年に、官の戦争遂行に直接必要な以外の各種学校整理の方針により廃止されるまで継続された。