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欧化主義の後退とキリスト教攻撃

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 明治十六年(一八八三)頃、リバイバル(信仰復興運動)が全国の諸教会を席巻した。その高揚のなかで、一〇年のうちには日本がキリスト教国化するであろうと考えた宣教師や信徒もいた。プロテスタントの信徒数が十五年中には五〇〇〇人を越え、このうち三〇〇〇人は同年中の受洗者であった。信徒数が倍増したのである。教会数も二十年には二〇〇を越えた。十年代には神学校を出た日本人牧師や司祭が生まれた。日本人の手による日本人への伝道が緒についていた。また、旧新約聖書も翻訳が完成し、楽譜付の讃美歌も公刊された。プロテスタントの教会では、日本人信徒が日本語で聖書を読み、自国語の讃美歌を唱うようになった。すべてが順調のようであった。しかし、二十四年は受洗者が前年の約五分の二に減少し、その年を境に約一〇年間は教勢(教会員数・受洗者数・礼拝出席者数など)が著しく停滞した。
 この一〇年間の不振の原因は、キリスト教界の内外にあった。政府の欧化政策の放棄もその一つであった。欧米文化の流入のなかで教会が果たしてきた啓蒙的な役割が失われ、文明の窓口としてキリスト教を求めた人びとは教会を去った。自由民権運動の攻勢を克服した政府は、二十二年帝国憲法の発布、二十三年の教育勅語の制定、帝国議会の開設など国民を支配・統合する体制を確立していった。そのなかには、キリスト教の説く信仰や倫理と対立するところがあった。キリスト教会はときにはこれに反発し、或いは国家体制への順応の道を選択した。二十年代、キリスト教界は、国民のなかに台頭する国家主義の攻勢にさらされる時期を迎えることとなった。
 二十四年に起こった「内村鑑三教育勅語拝礼躊躇事件」(不敬事件)は、国家主義とキリスト教徒との対立を象徴するものであった。この事件は内村個人の問題にとどまらず、キリスト教信仰がわが国の「国体」(天皇を中心とした国家体制)に合わないとの論議をひき起こすこととなった。札幌でも同年八月には、「尊皇奉仏」を掲げた「耶蘇排撃演説(ヤソはいぜつえんぜつ)」会が計画された(北海道毎日新聞 八月十二日付)。

写真-6 福音週報第50号