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「沈静」の到来

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 道外ではすでに不振の状態にあったキリスト教伝道は、明治二十五年(一八九二)八月頃、まだ札幌に及んでいなかったと思われる。『福音新報』の記者(北海樵夫)が、札幌ないし北海道の状況について、「我北海道にありては、基督教至る所に大門を開ひて歓迎せられ、其の受くる所の信用と尊敬とは、思ふに内地に於ては之を見ること得ざるべし」(同第七七号)と述べた。ところがそれ以降状況が一変し、翌二十六年四月に同じ記者が次のように報ずるに至った。
当地の教勢は昨年以来沈静にて、有力者を以て目せらるゝ人々も、兎角保守に傾むき、着実老成説一般に勝を得たるものゝ如く、演説会の如きも禁酒会、衛生会などの催ふしにかゝるものはあれども、純粋なる基督教的の演説会といふは、日曜日の礼拝説教を除けば、絶へて之を見るべからず。
(福音新報 第一一〇号)

 この両文はともに伝道に関連した文章で、前者は「兄姉来たりて饑渇の道民に水と餅(ぱん)とを与へよ」と、信仰の糧を伝えるためのアピール、後者は不振の伝道状況を打開するため、「北海道伝道義会」設立を呼びかけるものであった。全国的な教勢の不振は、北海道をも包み込んでいった。
 事実、札幌のキリスト教会(特にプロテスタント)全体が「沈静」となったことは、諸教派の教会が、札幌基督教会の「沈滞」を補って教勢の上昇を保持し続けたわけではなかったことを意味した。たとえば、札幌日本基督教会は「鶏会堂」で教会建設(設立)した翌二十九年には、牧師信太寿之(しのだひさゆき)と教師試補外村義郎が他に転じ、講義所創立以来、教会員の中心となって活動した島田操をはじめ、長老・執事の辞任があいつぎ、役員には執事小川二郎が残るのみとなった。体制が整わない窮状は、三十年に清水久次郎を牧師に迎えるまで続いた。また、札幌美以教会も会堂新築の翌三十一年に、新任の三谷雅之助牧師を迎えたときは、彼の回想によれば、「いよいよ講壇に立ち第一回の礼拝の模様を今も鮮かに記憶しておりますが、百余人の座席を有する木造の大会堂に、集まる男女合せて僅かに二十五人でしたのはいささか意外の感じでした」(川畔の尖塔)という状態であった。
 それらを札幌のキリスト教界全体としてみると、三十年の「札幌青年会」書記が『福音新報』に報じた次のような状況に出会う。
(日清戦争終戦)爾来平和に帰し国民戦後の経営に忙はしく、事業の建設に力を致せる為め、又一種唯物的暗潮の横溢し来るより、青年会も教会も共に少なからぬ影響を蒙り毎会出席者を減し、随て不平小理屈も唱へられ、札幌三万の小都会中五教会(新教のみにて)に割拠して其極瓦解せんとする有様に立ち至れり。
(福音新報第八七号 明治三十年二月二十六日付)

 教会の増加は全体的な教勢の進展を意味せず、小都市の中ではかえって共倒れの危機をさえ抱かしめた。また、日清戦争後の経済活動の活発化は、宗教的無関心を助長し、伝道の阻害要因になったとして記者の目に映じた。