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正教会と掌院セルギイの来札

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 「沈静」「不振」といわれた各教会の教勢は、二十世紀の到来に向けてどうであったろうか。まず、正教会から見てゆくこととしよう。明治二十年代、札幌の正教会は、ようやくその基盤を固めつつあった。『札幌正教会百年史』によれば、明治二十年(一八八七)、マカリィ鈴木の一家三人が、確認し得る札幌在住最初の受洗者となった。翌二十一年、伝教者パワェル松本安正が小樽から札幌に着任した。彼は札幌のほか、小樽・幌内・石狩を担当地域としたが、札幌最初の定住伝教者となった。これによって札幌には複数の信徒、集会所、教役者が存在することになり、正教会の教会としての要件を満たして、教会は成立した。教会の所在地は、南一条西三丁目にあった。二十七年、南二条西七丁目に札幌顕栄会堂が完成するまで、会堂は四度にわたって毎年のように移転を重ねた(これも各記録の整合を図るのが難しい)。
この図版・写真等は、著作権の保護期間中であるか、
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写真-11 パワェル松本安正
 
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写真-12 札幌顕栄会堂『札幌正教会百年史』より

 定住の教役者を迎え、多方面に活動することが出来るようになり、二十二年の『正教新報』(第二〇九号)は、パワェル松本とペトル小田島(副伝教者)が札幌の監獄署に月三回、受刑者のために説教に行っていることを報じている。しかし、教会といっても二間間口の長屋の説教所であったから、三〇人ほども集まると立錐の余地がない有様であった。このため同年、正教会の公会議場でペトル小田島が会堂建設の必要を訴えた。たしかに会堂の狭さは深刻で、とくに教役者に罪を告白し赦しを得る定例の痛悔(告解)の際には戸外で待ち受ける場合もあり、冬期間などこの機密(秘跡)を受けようとする人たちの列が寒風にさらされた。このため、すでに有力となっていたプロテスタント教会に移る信徒もいた。しかし一方では、信徒や正教会の理解者のなかに会堂建築の気運が高まっているという様子をも小田島は述べている。函館在住の司祭小松韜蔵(とうぞう)もまた、札幌の伝教の急務を説き、常住司祭派遣の必要を強調した。
 二十四年、札幌在住の教役者は松本安正から伝教者野々村良延に変わった。このころ、札幌在住の信徒は札幌から各地へ再移住することも多く、教勢が不安定であった。野々村は伝教に励み、主日(日曜)等の集会への出席を促し、議友(教役者の補助者・執事)の議会を定期に開催し、教会の活動を盛んにした結果、同年の降誕祭(クリスマス)は創立以来の盛会となった(正教新報 第二六八号)。二十六年には、やがて会堂を建てるべき敷地を得、一方青年会も「教理研究と布教拡張及び徳行の精励」を趣旨として誕生した。
 二十七年四月には、前述の札幌顕栄会堂が成聖(献堂)したが、ここは屋根に十字架をいただく洋風の木造建築で、至聖所、祈禱所、信徒控室を備えていた。後述する掌院セルギイが四年後に訪れたときには、ここに優雅な聖障とともに山下りんが描いた聖画像が掲げられていた。成聖式の翌日は復活祭にあたり、八十余人が参禱し、聖体(聖晩餐礼)を受領した。このころ教会名は札幌顕栄正教会と称していた。三十年には、ニコライ桜井宣次郎が待望の札幌定住司祭に任ぜられた。プロテスタントの諸教会が、「以前の活気を失し不景況の様に見受(け)れらる」のに対し、「吾正教会は彼等と比較して論ずべき者にあらざれども、比較的に評する時は勝を奏しつゝ在るの勢なり」(正教新報 第三九〇号)と自ら評価した。
 このように進展する教勢のなかで、三十一年、主教ニコライは掌院(修道院長)セルギイを伴って道内を巡回し、途中札幌をも訪れた。掌院セルギイは、このとき正教会はじめ他教会の状況とも詳細に手記にとどめている(北海道巡回記)。セルギイは、このころの札幌顕栄正教会の信徒数を一二〇人程とみていたが、すでに会堂は狭隘となっていると観察した。しかし活動は熱心で、主日の礼儀(礼拝)のほか、研究サークルがあった。毎年、親睦会も開催されていた。ただ、新しい会員の増加に力がそそがれ、信仰を継承するための子どもたちへの宗教教育が十分でないことをセルギイは指摘し、日曜学校の必要性を強調した。