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衣類の供給

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 二十年代の札幌は、市中を往来する人びとも実に様々な服装に身を包んでいた。漁夫や土工夫などの労働者、商家の店員などの町の勤労者、中流の職人、上流の官員や会社員など、一見して身分・階級がすぐそれと分かる風俗があった。二十四年発行の『札幌繁昌記』によると、もっとも下の階級に属する漁夫・土工夫は、無尻(角袖の角を切ったもの)、筒袖(開拓使松本判官の常服で薩摩鉄砲をいう)、股引にケットーを頭からかぶる。その上の市中の出面取(日雇稼)と商家の男女奉公人は無尻姿。さらにその上に属する職人肌は家では丹前だが、市中を歩く時は小袖、羽織に博多帯姿。次の紳士縉商は髭を立て、金の入歯に巻煙草、本羅紗モーニングに縦縞の細ズボンとゴム靴姿と。もっとも上級の官員・会社員は、髭を立て左手にステッキ、右手に絹のハンカチを持ち、少し反身になって歩くと。おおよそこの五段階に分かれていたようだが、これ以外に無尻に髪を藁で束ねた出稼婦女、薩摩袖の垢染みた出稼人夫一隊を支配する洗いたての筒袖に尻はしょり毛繻子の股引きに靴姿の親方、二子唐桟に博多帯、黒綸子の前垂姿の商家の番頭といったように、階層によってさまざま服装が異なっていた。和洋が入り混っていたといえる。
 二十年代のはじめころまで札幌の呉服太物の購買層は主として市街の人びとであったが、二十七、八年のころには、移民の増加と農家の購買力の増加によってそれまでの関東ものに代わって農家の好む実用的京阪ものが増加し、大和河内製の無地木綿が用いられた。そのほか一般には、木綿の双子縞をはじめとする縞物、伊勢晒などの晒木綿などがもっとも多く用いられ、京呉服の縮緬襟、本紅絹(もみ)、鹿の子、友禅縮緬や、関東呉服の花色絹、紅絹、無地海気、越後紬、米沢糸織(いとおり)、米沢節糸織、袴地として仙台平、嘉平治、小倉袴地など需要が多く、唐物のメリンス、毛繻子、友禅、緋金巾、本フランネル、唐天(舶来の天鵞絨(ビロード))なども用いられた。これらのほかに、仕立てられたものに、盲地の腹掛け・脚絆、双子盲地・綿ネルの股引きや、縞襯衣(はだぎ・シャツ)、メリヤス、小袖などが用いられた。また開拓当初から好んで用いられた古着はますます愛好され、以前は垢付のまま一〇貫目四、五〇銭であったが、日清戦争後の物価騰貴で市街の人びとが割安の古着を求めるようになった。しかし何といっても農家の需要が七割近くも占め、夏作後の夏服、冬作後の冬服とともに婚礼など祝儀用の需要も多く、秋田・東京・函館・福山などから仕入れて売られるようになってきた。もっとも需要の多かったのは、二子縞・ガス糸・木綿縞のもじり袖、足巻き作製用の下等の毛布、外套、下等の洋服などであり、このころ洋服の流行がすたれて和服が流行したため袴の値段が騰貴したり、地方仕入れの古着は袖が小さく、女物の半纒羽織も丈が短くて札幌の流行に合わなかったりするなど、古着は既成の衣服として求められるのと、原料として求められる面とが入り混じって、安く簡便に衣料を提供する役割を果たしていた。