二十年代の札幌区内では、札幌本府建設の時点で公認したいわゆる公娼制度が存続していた。その一方で、密売淫すなわち私娼が公娼の約二倍は存在するといわれた。この状況は、区民によって道都札幌の中心、それも庁下の対面を汚すものといった考え方から移転問題へと発展したが、私娼を公娼化させることでお茶を濁してしまった(第四節三参照)。
ところで、明治初年において札幌のみならず風呂屋は混浴が当たり前で、二年東京府では男女混浴を禁ずる達を出す始末であった。札幌においても風呂屋が男女ごとに仕切りを設け始めたのは二十年代に入ってからである。二十二年五月の新聞に、「よき風呂屋」として南一条西四丁目の丸仙印の風呂屋は、男女の仕切りが高いとある。ようやく混浴をやめようといった動きがでてきた。
また、成田山境内で毎年行われてきた盆踊は、二十八年八月風紀を乱す恐れがあるという理由で禁止となった。