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月寒村民と兵営

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 月寒村では、村の中に第七師団が突如設置された関係から村の姿が次第に変化しつつあった。第七師団は、三十三年から三十五年にかけて旭川に移転することとなるが、独立歩兵大隊の後身歩兵第二十五聯隊(三十二年改称)と札幌聯隊区司令部を札幌に残したので、以後も月寒村は歩兵第二十五聯隊のある村として全国にその名を知られるにいたった。
 ところで第七師団の兵営施設の存在は、食糧の調達からはじまって、被服、諸雑貨日用品、軍馬等にいたるまで大消費施設でもあった。また、兵営でのさまざまな仕事に村民が雇われたり、兵営の周囲には日用品販売や飲食店など兵営に依存した商店が並ぶようになった。さらには、これまで農地や草原でしかなかった土地を将来を見越して買い占めようとする商人が続出したり、借地代もこれまで一坪四銭であったのが三十年十月には一坪五、六銭に値上がりし、借家賃も二間半に四間半の建家で月四円から六円五〇銭と値上がりする始末であった。このため買上げられたままの荒蕪地や借り手のないままの空屋が目立ち、村の有志たちは、地代を坪一銭以内に引下げることや、家賃を札幌よりも二割以上減じることを提案した。
 また、兵営が建設されたことにより、飲食店の増加は風紀上の問題を生み出し、兵営側からも健全な娯楽施設の設置を望む声も聞かれた。それとともに、農民たちが困惑したことは、自分の農地へ行くにも兵営が障害となって大きく迂回していかねばならない不便が生じたことである。この道路問題は兵営側にとっても同様で、訓練に出ようにも畑の中を通らねばならず、早晩道路整備の問題が急がれた。
 しかし、次第に村民は、聯隊に対し親しみを深めてゆき、兵営内に桜木一〇〇本を寄贈したり、毎年十二月の入営兵の歓迎には、村民有志が礼服着用し、小学生までが門前に整列して「万歳」を唱えるのだった。