函館の請願はどうなったか。衆議院は請願委員会がこれを院議に付すべきものとし、三十年二月一日に報告、二月二十四日の本会議で「旧制度ヲ以テ支配サレテハ、函館市ヲ発達サセル所以デナイカラ、此函館ノ市ニ向ッテ区制ヲ廃シテ、内地ト同ジク市制ヲ布イテ貰ヒタイト云フ請願デゴザイマス。是モ至当ナル請願トシテ院議ニ付スルコトニ委員会ハ決定」した経過が述べられ、起立多数をもって函館に市制を施行する請願を採択し、議長は翌日付でこの旨を内閣総理大臣に送付した(第一〇回帝国議会衆議院議事速記録 官報号外 明30・2・25)。貴族院でも三月一日の本会議で「函館ニ市制ヲ施行スルノ件」につき意見書を内閣総理大臣宛送付することを可決した。両院の函館市制請願採択議決は内閣に送付され、衆院議決が二月二十六日付で、貴院意見書は三月二日付で各々内務・拓殖務両大臣へ回付となった。これに対し内務省は返答しなかったが、拓殖務省が四月八日付で閣議を請う文書を提出し、市制反対の立場を表明した。
高嶋拓殖務大臣は「忽然市制ノ施行ヲ以テセントスルニ至テハ、亦是大体ヲ考察セス。順序段階ヲ顧慮セサルモノニシテ、其ノ実際ノ不利、言ハスシテ明ナリ」と断言し、函館の運動は、前年十二月閣議に提出済のいわゆる三十年区制案を「拒ムニ似タリ。是皆区制町村制ノ成条ヲ見サルニ基ク所ノ誤謬ニシテ、固ヨリ深ク論ズルニ足ラス」と判断したのである。こうした主張の基には、市制と三十年区制案が相異点をもちながら、自治を拡充していこうとする精神、区行政と区財政は区自ら執行していく方針において「同一軌タリ」との考えがあった。勅令をもって制度を下ろそうとする側と、住民が求める制度を法律としてつくり上げようとする側の食い違いがそこにみられよう。
この請議による閣議は四月二十三日に開かれ、拓殖務省の「要ハ速ニ区制ヲ執行スルニ在ルノミ……請願ハ之ヲ採用スヘキ限ニ非ス」との主張を了承し、「現ニ北海道区制町村制ノ案ヲ閣議ニ提出シアルヲ以テ、本件請願ハ採用スヘキニアラスト云フニ在リ。依テ請議ノ通リ、閣議決定セラレ可然ト認ム」ることになった。この政府決定は函館市制の不可とともに、前年十二月以来店晒しになっていた三十年区制案の審議促進をもたらすのである(公文雑纂 明治三十年 巻三四 国公文)。
政府決定の二週間ほど後、三十年区制案は議了し、五月二十五日公布をみたのは前述の通りである。こうして函館市制は政府の認めるところとならず、かえって函館の人たちが反対してきた三十年区制の公布を早めるという皮肉な結果を生んだ。政府は函館の要求に理解を示さず、議会両院の議決をも一方的に無視した拙速さが、公布の勅令を実質的には施行困難にしていくのである。