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区政の懸案

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 明治二十年代に火種を生じた立地論争は解決をみることなく、区制施行後の札幌に潜在化し、事あるごとに煙を上げ続け、区政の難題となっていった。区会が開設されると、たちまち議場の内外で火種が燻り始める。区会成立時の実業協会と憲政党札幌支部の対立構図は前述したが、立地論争が主流派となった実業協会の主張活動を制約した。協会派は道庁の札幌永続を願い区会における主導権を握ろうとしたが、少数派とはいえ憲政党札幌支部は時の政府の与党であり、道庁幹部との緊密なつながりを後ろ楯に対抗した。対立が深刻化した場合、支部の働きかけで政府が道庁移転を表明するのではないかという不安が主流派につきまとっていた。
 「谷氏等は、憲政党を片潰しにすれば本部の力を以て道庁を上川に移し、其他札幌に不利益の事あらんと云ふと雖ども、之れ浅羽的虚喝の事にして、道庁の移転は爾く軽卒に行はるべきものにあらず」(道毎日 明32・12・20)との報道からも、区会の複雑な思惑がうかがえよう。現実の問題として、札幌に存在する第七師団が上川へ移転する決定がなされ、三十三年に入ると転出作業が始まったので、これを目の当たりにした区民は、次は道庁移転かと不安に駆られた。離宮の上川設置は形のまだない構想段階で札幌が無念の涙を流したが、第七師団の移転はそれとは様相を異にした。すでに札幌にいる人が出ていき、ある物がなくなってしまったのだから、道庁だけは札幌に置き続けたいと望んだのは無理からぬことであろう。
 こうした札幌区の課題を適切に述べた新聞記事がある。三十八年十二月に北海タイムス紙上に六回にわたって連載された。土岐生の署名入りで「札幌区政雑観」と題し、長文なのでその一部分を次に紹介し、三十年代札幌区政の苦悩を理解する手掛かりとしたい。
 (前略)札幌区が兎も角も今日までの発達を致しましたるのは、自然の発達ではなく、全く人為的の発達でございます。蓋し札幌区は四辺農村の発達に伴ひ、農業的都会として発達したのでもございません。また農産物の集散地として発達したのでもございません。是れは多言を費す迄もなく、何人も皆な熟知せらるゝ事柄でございます。而して其の今日の発達を致しましたのは、札幌区が偶然にも北海道庁其の他諸官署の設置地とせられ、北海道政治の中心と致されたからでございます。
 札幌区が、北海道政治の中心とせられたるが故に、今日までの発達を為し得たと申すことは、一に札幌区が月給取りの御蔭で発達したと云ふことを意味するのでございます。それ故に、札幌区に官庁の数が一でも多くなり、札幌区に月給取りの数が一人でも多くなれば、札幌区の繁栄は、夫れ丈け増して行くし、反之、札幌区に官庁の数が一つでも減するか、月給取りの数が一人でも減すれば札幌区の繁栄は、夫れ丈け減せられるゝ訳でございます。然るに、最近数年間に於て、札幌区には官庁の数が増して居りませうか、又は減じて居りませうか。月給取りの数が増して居りませうか、又は減じて居りませうか。官庁の数は増さずして、寧ろ減少し、月給取りの数も亦増さずして、寧ろ減少いたす傾きのあるのは、掩べからざる事実でございます。(中略)
 北海道庁にして、一朝札幌を去りて他地方に移ることとなり、本道政治の中心、従てまた他地方に移ることとなりますならば、現在札幌に存在する所の他の諸官署や諸会社の大部分も、亦これと共に他地方に移るやうになるでございませう。左すれば、北海道庁が札幌区より他地方に移ると申すことは、同時に、札幌区に於ける大部分の官署や会社やが他地方に移ると云ふことを意味するのでございまして、官庁の存在によりて今日の発達をなし、月給取りの御蔭で繁栄を保ち得たる札幌区が是れに因りて被るべき打撃の、如何に重大にして、又如何に痛酷であるべきか、想像するだに人をして悚然たらしむるではございませんか。札幌繁栄の唯一原因たる官署の数と月給取りの数は、唯だ行く行く減少すべき勢ひありて、増すべき傾向は少しもない。而かも当分商業地とも工業地ともなり得べき見込みが無いとしたならば、札幌区の将来は唯だ衰亡の一途あるのみでございませんか。札幌区民諸君にして、一念区の将来に及ばゞ、今日は決して安然たるべき時ではございますまい。札幌区吏員諸君にして、苟くも区の為めに図りて親切の心あらば、今日は決してボンヤリして居るべき時ではありますまい。(後略)