前述のとおり区制諸問題調査の中で、すでに円山と中島遊園地を公園候補地としていた。そして区会での調査報告には「是ハ常設委員ニ於テ講究ノ事」と結論が付されていた。区制施行直後から公園整備の必要性が認識されていたわけである。
明治三十四年、札幌区では大通西七丁目に黒田清隆の銅像を設置することを機会に、大通六~八丁目に溜池と築山を設けて小公園とすることにして、十月道庁へ申請し十一月認可された(北タイ 明34・10・12、11・3)。黒田の銅像の序幕式は三十六年八月であるが、どのような池と築山になったものか、写真などが残っていないので不明である。
また円山養樹園については、三十六年御料局に貸下を申請した(北タイ 明36・4・24)。そして札幌区では円山の公園地の実地調査を行った(北タイ 明36・9・13、24)。区費膨張下の時期での公園整備計画であるので、区会内では賛否両論が出されていた(北タイ 明36・10・16)。しかし十月二十二日の臨時区会で円山養樹園の借受を可決した(北タイ 明36・10・23)。また中島遊園地についても、区役所による整備の必要を求めた新聞記事が出た(北タイ 明36・7・21)。大通の利用の仕方についても議論されてきていたが、興農園小川二郎による西二、三丁目の芝生庭園化の努力(北タイ 明40・4・11、20、8・11)、前述の溜池と築山の計画など、逍遙地として体裁が整えられてきた。