篠路村はまったくの純農村であり、石狩川の鮭、八ツ目鰻漁などのわずかな水産業を除き農業以外の産業を有していなかった。農産物は、「燕麦、大小豆、大小麦、亜麻、菜種、玉蜀黍、菜豆等ナルモ就中燕麦ノ産額最モ多シ」(町村誌資料)といわれるように、明治末期では畑作物が中心であり、燕麦が一番の産額であった。しかし安定した高収入が得られる水稲栽培への試みも開始されてくる。
篠路村は低湿地、泥炭地が大地積を占めていたところであったが、明治四十年に「湿潤不毛ノ土地ヲ乾燥セシメ畑農耕地ニ化成シ荒廃地ヲシテ良圃タラシメンカ為」に札幌村篠路村組合役場を設立し、札幌村大字雁来村から篠路村にいたる大排水路が設けられた(町村誌資料)。この事業の計画は三十七年にたてられ、篠路村では三〇〇町歩、札幌村では四六〇町歩(うち大字丘珠村が六〇町歩)の水田開発が目的とされていたという(北タイ 明37・5・28)。事業完了後の成果については不明であるが、大正九年では約一〇〇町歩ほどの水稲作付がされている程度で、所期の目的ほどではなかったようである。
大正十年の作付二八四九町歩のうち、燕麦は実に六割五分の一八五〇町歩を占めていた。ただ農産価格でいうと約四一万円のうち約一九万円を占めるに過ぎないが(札幌支庁管内統計書)、それでも札幌村と同様に陸軍糧秣本廠札幌派出所の買付により、最も安定した作物であったようである。篠路村の農業はこのように当時、官依存の〝燕麦村〟であったとみることができる。