新琴似は明治二十、二十一年に佐賀、福岡、熊本、大分、徳島、岡山県などの西日本から屯田兵に応募した二二〇戸により開かれた屯田兵村である。
新琴似はもとより低湿地が多く、それを利用して新川付近では早くから水田も行われていたが小規模なものにとどまっていた。低湿地については、「官ノ大排水ニヨリテ大体乾燥シ、其後毎戸小排水溝ヲ設ケタレハ大ニ乾燥スルニ至リ」(札幌郡調)と指摘されており、また西部の追給地は、「今に荒蕪の地多く給水及び排水溝を掘鑿するには四、五千円を投するに非されは水田とも畑地とも為し能はさる」(道毎日 明34・5・16)とされており、大規模な潅漑・排水溝の設備が必要であった。そのために三十七年七月に新琴似道路排水橋梁土功組合が組織され、約九〇〇町歩の造田をめざし四十一年まで工事が行われたが、十分な成果は得られなかったようである。本格的な施設は昭和期にもちこされることになった。
大正七年に開村三〇年を迎えた新琴似は、戸数二八〇戸、人口一五〇〇人、耕地一四〇〇町歩に達しており、「住民勤勉、貯蓄心に富み公共事業に尽し共同一致は同部落の一大特色」といわれるようになっていた(北タイ 大7・5・22)。新琴似兵村の公有地であった新川は、二十六、七年頃から小作として入植が行われるようになり、三十四年頃には八〇戸に達している。入植者は徳島県出身がもっとも多く、熊本、佐賀、大分の各県がついでいたという(札幌郡調)。兵村入植者の出身地と重なっており、おそらく呼び寄せが行われていたのであろう。