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大正二年の大凶作

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 本道を襲った大正二年の大凶作は、主に水田地帯である空知地方が最も被害を受けた。札幌市域ではやはり水田地帯である手稲村白石村の被害が大きかった。白石村の凶作状況については以下のように報告されている(小樽新聞 大3・1・24)。
……三分作未満戸数六十六戸あり、字米里部落は元と百二十一戸を有せしが年々の水害に依り目下戸数五十戸に過ぎず。昨年凶作の為め更に惨状を加へ糊口に窮するもの多きに依り、字厚別部落民と共に昨年来砂利敷工事を請負はしめ、其賃銭に依り目下飢を凌ぎつゝあり。又昨年凶作の為め水田地植物皆無にして村基本金より貸付せし百十九戸、金額千七百八十五円に上り、細民は目下砂利敷工事に依り辛して糊口を凌ぎ居るも、本年四月以降に至っては更らに相当授産の途を講ずるの要あり。

 白石村には三分作未満の六六戸を含め、村基本金から貸付を受けた一一九戸の窮民が生じていた。窮民の救済事業として砂利敷工事の請負が行われたが、これは豊平川の砂利を採取して主な道路に敷くものであった。従事者は約二五〇人に及んでおり、村内戸数の三割ほどが生活の窮乏に陥ったものとみられる。この事業に当たり、当時農会会長であった阿部仁太郎は請負の代表となり、工費を立て替えるなどして救済に尽力したという。