日清戦争期には、軍需品である亜麻製品の需要が急増し、全国の製麻工場はフル操業で生産を増大させた。日清戦後には需要減退から滞貨を抱え、業績不振に陥っていたが、日露戦争は、再び業界の活況をもたらしたのである。まず、北海道製麻の主製品たるズック地は、開戦前の一反上等二二円が三十八年五月には二八、九円に、二五番蚊帳糸は一〇〇斤一五円が一九円と高騰した。これにより北海道製麻株も三十七年二月には一二、三円であったものが六〇円にまで高騰している(北タイ 明38・5・12)。
さて、表1は北海道製麻・帝国製麻札幌工場の亜麻製品生産価額である。まず、数量が系統的にわかる麻織物では必ずしも日露戦争期に増大しておらず、日露戦後も変動はあるものの、生産量は減っていない。北海道製麻は平時において軍需品と民需品はほぼ半々だといわれている。しかし、日露戦後は陸軍の師団増設などにより軍需の激減が避けられ、民需でも船舶総トン数が戦前の一・五倍化したために需要は多かった(北タイ 明39・1・27)。たとえば軍用携帯天幕地については、四十年三月まで毎月八〇〇反の先約定が締結されていた(北タイ 明39・6・23)。
表-1 麻糸・麻織物生産高(札幌工場) |
年 | 亜麻糸 | 麻織物 | 合計 | ||
生産数量(斤) | 生産価額(円) | 生産数量(反) | 生産価額(円) | 生産価額(円) | |
明33 | - | - | 27,343 | 295,070 | 627,626 |
34 | - | - | 32,046 | 315,851 | 837,122 |
35 | - | - | 33,487 | 424,861 | 1,134,786 |
36 | - | - | 26,246 | 391,078 | 764,364 |
37 | - | - | 29,014 | 343,326 | 707,880 |
38 | 1,722,101 | 382,275 | 29,574 | 339,693 | 724,318 |
39 | 1,715,678 | 399,631 | 83,087 | 310,967 | 710,598 |
40 | 2,100,502 | 595,028 | 30,522 | 330,175 | 925,203 |
41 | 2,217,853 | 621,472 | 855,369 | 381,818 | 1,003,290 |
42 | 200,135 | 524,080 | 24,892 | 401,519 | 925,599 |
43 | 231,016 | 536,188 | 800,784 | 386,958 | 923,146 |
44 | 226,392 | 488,441 | 910,156 | 348,728 | 837,169 |
45 | 185,144 | 393,431 | 950,236 | 352,730 | 746,161 |
大 2 | 258,810 | 646,803 | 866,842 | 403,552 | 1,050,355 |
3 | 294,414 | 777,252 | 1,149,184 | 473,535 | 1,250,787 |
4 | 347,828 | 973,918 | 1,190,873 | 495,962 | 1,469,880 |
5 | 1,365,156 | 571,279 | 378,654 | 571,280 | 1,142,559 |
6 | 359,992 | 1,738,761 | 34,699 | 520,854 | 2,259,615 |
7 | 296,479 | 3,705,988 | 34,388 | 987,998 | 4,693,986 |
8 | 333,010 | 1,609,546 | ? | 881,451 | 2,490,997 |
9 | 320,671 | 1,639,565 | ? | 741,994 | 2,381,559 |
10 | 223,355 | 1,414,000 | ? | 1,898,074 | 3,312,074 |
11 | 242,278 | 1,256,384 | ? | 2,218,462 | 3,474,846 |
1.麻織物生産数量の単位は,明治41年から碼(ヤール)。ただし42年は不明。大正6年から反。 2.麻糸生産数量の単位は明治42年から貫。 3.『北海道庁統計書』(各年)により作成。 |
ところで日清戦争時には、北海道製麻のほかに全国には近江麻糸紡織(明17・6設立)、下野麻紡織(明20・11)、日本織糸(明29・1)があった。日清戦後の生産過剰に陥ると生産制限協定、合同販売協定が結ばれた。しかし、根本的な業界救済案として下野製麻の大株主安田善次郎、近江麻糸の重役大倉喜八郎の呼びかけで四社合同の構想が持ち上がり、北海道製麻を除く三社が明治三十六年七月合併し、日本製麻株式会社となった。その後、日露戦後の需要減退期には再び合同機運が高まり、明治四十年七月に北海道製麻と日本製麻が合併し帝国製麻株式会社となった。資本金六四〇万円、取締役社長には安田善三郎、常務取締役には宇野保太郎が就任した。これにより北海道内の帝国製麻製線工場は、琴似、雁来、当別、新十津川、樺戸、栗山、富良野、北龍、狩太、真狩、幕別、清真布、旭川、紋鼈、虻田、俱知安、帯広、士別の一八工場となった(帝国製麻株式会社三十年史)。