札幌区および周辺町村の電力需要はまことに旺盛であり、札幌水電の約一〇〇〇馬力の電力供給では不足をきたすことは明らかであった。すでに明治四十五年四月十一日に、北海道最大の電気事業者である王子製紙との問に、同社千歳発電所の電力二〇〇〇馬力の供給を二〇年間受ける契約が成立し、大正二年より毎年一四九二キロワットの買電を始めている(札幌水電 第八回営業報告書 明治四十五年自一月一日至六月三十日、逓信省電気局 各年電気事業要覧)。しかし根本的解決策は、札幌水電の電力供給力増強であり、大正二年二月十九日には「下砥山第二発電所」発電水力調査の許可が逓信大臣よりなされた(以下の記述は特に断わらなければ、札幌水電 各期営業報告書による)。四年一月七日には、帝室林野管理局長より第二発電所用敷地使用許可がおり、六月十四日に第二発電所増設に係る設計書が北海道庁長官に提出された。大正六年に建設の歩みは速まり、七月から水路その他の測量を開始し、十二月に発電所水利使用願を提出、発電機購入手続も完了した。九月十日の臨時株主総会では、「水路其他基礎工事ハ三千馬力ノ設備ヲナシ発電機械類ハ先以テ約千馬力二台ヲ据付クルコトヽシ、大約八拾万円ノ概算ニシテ工事ニ着手シ大正七年末迄ニ完成ノ予定」であると報告された。
大正七年初めには白川、浅野、地崎、中山の四業者と第二発電所工事の請負契約が交わされ、工費は約九九万九〇〇〇円とされた。発電機もゼネラル・エレクトリック社製のものが十月に到着する予定であった。ところが、第一次世界大戦の影響により発電機到着は大幅に遅れ、また九月下旬の暴風雨により工事も停滞した。
翌八年に入り二月に水路の通水試験を行ったところ、一部が崩壊し工事上の不備がいくつか発見された。王子製紙の浜田技師にも原因調査を依頼したところ、「工事現場地質ノ不良ナリシコト工事請負人ノ施工上ニ誠意ノ乏カリシコト工事監督員ノ注意ニ欠クトコロアリシコト」が報告された。その後も不完全な個所が次々と発見され、九年二月の新聞にも、「第二発電所は通水式挙行後に於て再次の破綻あり根本的大工事を施すにあらざれば使用に堪へずとも称せらる。其修理費或は三〇万円にて物に成らんかとも云はる」と書かれている(北タイ 大9・2・1)。
しかし第二発電所は大正九年、「水路不安ノ箇所アルヲ以テ之カ応急補修工事トシテ木樋ヲ挿入シテ通水ヲ為シ四月十四日電気工作物仮使用ノ認可ヲ得、翌十五日ヨリ発電ヲ開始」した(札幌水電 第二四回営業報告書 自大正八年十二月一日至大正九年五月三十一日)。発電機は第一、第二発電所合わせて従来の倍の四台となり、供給力は格段に増強されたのである。
ちょうど第二発電所が完成した大正九年初頭から、札幌区による札幌水電買収構想が浮上してきた。将来札幌が工業都市として進もうとすれば、低廉豊富な電力供給が不可欠であり、それには公営(区営)が適当であるというのである。しかし、第二発電所建設の際の水路の不完全は、区営化(区による札幌水電買収)の大きな障害であった。二月頃には買収価格四五〇万円~四八〇万円という説も出されたが、第二発電所水路部分の改修費がいくらかかるかの見通しが立たない以上、決定はしがたいようであった(北タイ 大9・2・20)。
佐藤区長も難関は第二発電所であり、なお調査中であるとの態度を表明している(北タイ 大9・3・8)。この問題は、札幌区による豊平川水利権獲得、水道事業とも絡み、翌十年以降には区会において政治問題化し、区民を巻き込んだ激しい反対運動も起こる。これらの過程については次の巻で述べることにしたい。