一般に大河川の最下流部は、河川の氾濫をコントロールする治水技術が未熟であったために農業開発が遅れ、遊水地や生産力の不安定な田畑作地帯である例が多い。北上川でも信濃川でも、最下流部の農業地帯としての安定化は、治水が完備され水田開発が進む昭和期に入ってからなのである。札幌の農業も石狩川の最下流域に展開したわけであるから、石狩川の上・中流域のように水田開発中心の方向を採ることができず、必然的に畑作や畜産を選択することとなる。屯田兵制度をもとに山鼻や琴似、新琴似、篠路の開発が進んでくるが、当然そこでの農業形態は畑作生産を中心に進んだのである。