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販売組織の動き

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 輸出農産物としてのたまねぎの性格に販売組織も大きく規定された。明治三十一年に早くも輸出業者五人が北海道輸出組合を組織し、翌年には三人が新たに加わって北海果実疏菜輸出商組合に発展し、ウラジオストクを中心に、たまねぎとりんごの輸出を行った。三十八年からは輸出検査を実施し、四十四年には重要物産同業組合法に基づく北海道果実疏菜輸出商同業組合へと改組・発展している。その組合長職にあった一柳商会は最大であり、海外に六支店を開設して独占的な販売ネットワークを形成した。
 農家と集荷業者のレベルでは、売買は当初「仕込取引」が一般的であった。春に営農資金が貸付けされ、収穫物は集荷業者に一括して委託販売するという形態である。この結果、価格変動のリスクが一方的に農家にかかるとともに、価格高騰時の利益も業者の懐に入るという仕組みであった。また、営農資金の利息も高率であったという。その後、次第に融資と販売が分離されるようになったが、その販売方式も農家にとっては不利なものであった。圃場売買であり、「青田売り」「畑売り」と称された。収穫前の八月中旬(旧盆)から九月上中旬(村祭)にかけて、作況と価格動向を加味して同業組合の会合などで基準単価が設定され、それをもとに圃場毎の反当価格が決められるのである。農家のなかには業者の「買い子」として、その支配に入るものも多かった。収穫前の契約であるから、一般的には業者に有利な価格設定がされたことはいうまでもない。その実態は以下のとおりである。
札幌区の玉葱商と札幌村玉葱耕作者との間に本年玉葱青田の売買契約成立し、既に夫又契約書を取交したるものの実数約五万箱の多額に達したるが、其出来値段は一斤九厘乃至一銭にて各手付金は総て二割差しなりと
(北タイ 明40・3・29)

 これに対して、農家が出荷組合を自ら組織して販売に乗り出す動きもみられた。明治三十七年には、元村一円を単位として札幌村玉葱輸出組合が設立され、翌年には産業組合組織(札幌村玉葱販売組合)となる。組合員は三二人であり、初年度にはマニラのカッスル商会に対し横浜荒井商店を通し、四七三六箱の輸出を行ったという記録がある(小樽新聞 明37・10・13)。札幌外四郡農会もこれをバックアップし、三十九年にはたまねぎ試験地を設置し、組合長の武井磯吉に依託している(北タイ 明39・4・24)。また、四十年には組織を丘珠村、篠路村にまで拡大し、二五〇余人の組合員となっている(北タイ 明40・2・5)。共同販売による価格メリットははっきり現れており、一斤当たりの価格は組合販売と業者販売では、前者が明治三十八年から四十二年までほぼ一銭二厘であるが、後者は一銭から九厘五毛であって、二割増しの水準であった(北タイ 明42・9・11)。しかし、これも四十五年に解散している。輸出組合の解散後は、申し合わせ的な出荷組合が存続していたが、大正十年には組織を強化して札幌村玉葱出荷組合が設立された。大正十五年には農商務省の表彰を受けるほどに発展し、同年全道的な組織に発展的に解消して北海道疏菜出荷組合が設立されたが、これも翌年には活動停止状況に陥っている(以上、札玉創立二十年記念誌)。
 農民による出荷組合の発展が阻害された要因は、集荷業者による組織の切り崩し、価格変動の激しさによるリスクの大きさ、そして運転資金の調達問題などがあったが、農会による支援によってもそれは回避できなかった。たまねぎの収益性は高く、作付は拡大したのであるが、流通過程でのうまみは第二次大戦以降まで商人の手に握られていたのである。