札幌区は例年十一月頃より十二月上旬までは商況少しく引立ち、小商人は十一月より十二月に掛け、近村農家の景気を見て多少商品の仕入れを為すもの多かりしに、本年の農作物は平年よりも二割乃至一割以上の豊秋なるに拘らず、雑穀の価格は非常に廉価にして(中略)頗ぶる下落を呈し、売口悪しく買手は控眼となり、又た売人は売惜しみの姿にて、兎角農家は思はしき手放しもなり難く、只だ農期中仕込みの負債を為すに足る程の雑穀を売却するに止まり、総べて節倹を主とする有様なるに……
(明33・12・11)
ここで「豊秋なるに拘らず」価格が廉価で下落しているというのは、むしろ豊秋であったから価格が下落したとみるべきだろう。こうした農産物価格の低迷から商況の沈滞を指摘する記事は、この時期に多数見られる。このような閉塞状況に終止符を打つかに思われたのが日露戦争である。ただし、日露戦争も戦時においては、国債発行による金融逼迫や軍需以外の産業の不振となってあらわれた。日露戦争中に札幌区役所が行った調査の結果が明治三十七年七月の小樽新聞に報じられている。まず戦争により事業が活発となった例を紹介しよう。製麻株式会社は、「時局の為めに却って業務の繁忙を致し通例五百五十人の職工を使役せるもの今日増員して六百六十名を註さる従って労役賃銀の如きも三割方を昂騰せり」と好況ぶりがうかがえる。また重谷木工所は、「清国向枕木其他の需要昌んに起りたる為め事業頓に繁忙を極め通例六十名の労役者を増して八十名とし一人平均賃銀四十三銭の処四十八銭に増加せり本年中は現況を持続すべきものと信せらる」とこれまた好調であった。
一方戦争による苦境を訴えるものも多く、たとえば麦酒株式会社は、「日露開戦以来各地共国債の応募に急なりしと一般商況の不振なる為め製品の売行良好ならず昨年度に比して約二割を減じ使役男二百二十名前後なりしを時局後は十一名を解雇せり当分は回復の期なかるべし」ときわめて悲観的である。また札幌器械製造所は、「時局の影響を蒙ること尤も甚く職工及労役夫は例年の十分四を減じ営業成績は昨年の半額にも及さるべし」という。全体としては、「時局の推移に連れて一般の購買力を減縮し内国向を主とせる工業の如きは影響を蒙ること甚しく業務の一部又は全部を停止するの止むを得ざるに至れるものあるやも計り難く」というものが多かったと思われる(「時局と工業の影響」小樽新聞 明37・7・9)。
明治三十八年(一九〇五)九月の講和条約成立は、「屈辱講和」として市況の沈滞をもたらしたが、その後同年末にかけて一時景気は上向き、戦勝気分がみなぎっていた(北タイ 明38・10・17)。しかし、非常特別税は徴収され続け、金融逼迫は依然として解決せず、明治四十年にはいわゆる「一九〇七年恐慌」を迎えることになる。