札幌の人口増加に伴い、食料品の卸売市場や小売商業がしだいに整備されてきた。まず、生鮮食料品の典型である水産物の事例を見ていきたい。
明治四十二年一月に「札幌の魚市場」と題する記事が北海タイムスに三回にわたって掲載された(北タイ 明42・1・28~30)。これにもとづいて当時の状況をうかがうことができる。まず、札幌区には四カ所の魚市場があった。魚印(南六西一)、大印(南六西一)、開業舎(北一東一)、札幌魚菜株式会社(北三西一)である。魚印が最も古く、株式会社組織となったのは三十一年一月である。この魚印から開業舎、大印が分離し、魚菜株式会社は四十一年三月に設立された。四十一年の四市場の売上高は約四〇万円で、大部分は札幌区内消費であるという。魚はまず小樽、余市、岩内、高島、祝津、白老、苫小牧、室蘭そして遠方では釧路、東京から入荷している。小樽などの日本海沿岸からは、タラ、カレイ、カスベ、白老、室蘭方面からはタコ、スズキ、アブラコ、ハモ、カツオなどが入ってくる。釧路からは、汽車便で三日かかるので鮮度は落ちるがマグロ、オヒョウ、アブラコなどがくる。東京からくるのはタイ、アカガイなどに限られる。魚市場では、午前九時から正午頃まで糶市(せりいち)を開き、組合員の五十集屋(いさばや)たちがこれを買って天秤に掛けて区内を売り歩くのである。
札幌区にはこのように豊富に魚類が出回っていたが、卸売市場が四カ所というのは多すぎたようである。魚菜会社(専務取締役小沢要吉)は、明治四十一年(第一期)決算で一八二五円の損失金を出し(北タイ 明42・2・7)、魚印も旧債の始末に困り、社長の新田由平が私財をつぎ込んで営業を継続している有様であった(北タイ 明44・9・28)。ちょうどこの頃、北海道市場取締規則において一市街地一市場が原則とされたのを機に、四市場の合併が企図されたのである。大正二年十一月資本金七万円をもって株式会社札幌魚市場(本店南六条西一丁目)が設立された。本店を旧大印、支店を旧開業魚菜とし、魚印とサ印の二市場は閉店となった。旧市場会社へは、暖簾料として大印に七〇〇〇円、開業魚菜に一万円、魚印に四五〇〇円、サ印に四〇〇〇円が支払われ(北タイ 大2・11・12)、社長に草野留吉、専務取締役に矢村鐘太郎が就任した(北タイ 大2・12・24)。しかし、一本化したはずの魚市場であったが、これとは別にもう一つの魚市場を設立する動きがおこり、翌三年六月、魚菜株式会社が創立された。取締役は吉田敬一、十文字福松、高橋勝二郎らであった(北タイ 大3・6・22)。さらにもう一カ所設立の動きがあり、札幌魚市場の一都市一市場の独占的営業は実現しなかった。その後は魚市場と魚菜市場の二社体制が続いていくのである。