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営業状況

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 図5は拓銀の営業状況をまとめたものである。払込資本金は、日露戦争期や一九〇七年恐慌の時期に停滞したほか、順調に増加している。この間三〇〇万円でスタートした公称資本金は、明治三十九年に五〇〇万円、大正六年に一〇〇〇万円と増資された。各年の純益金は、明治三十六年、四十一~四十三年、大正二、三年、七年に前年比マイナスを記録している。これは、一九〇七年恐慌、大正二年凶作、そして休戦反動といった景気変動の波を反映したものだろう。しかし、純益金の趨勢は、この期間に約三三倍化を遂げるというもので、拓銀の急成長を物語っている。

図-5 拓銀の営業

 この図でもっとも注目したいことは、長期貸付金比率の推移である。これは、年末貸付金残高にしめる長期貸付金たる年賦償還貸付、定期償還貸付残高の割合である。年賦償還貸付とは、償還期間五年から三〇年までの長期貸付であり、定期償還貸付とは、償還期間五年の長期貸付である。長期貸付金比率の推移は、三つの時期に区分されるだろう。まず、明治三十三年から四十年までの低落期、次いで四十一年から大正四年までの上昇・高位安定期、そして大正五年以降の低落期である。最初の低落期は、株券担保貸付、産物担保貸付、荷為替などの短期貸付が長期貸付を上回るテンポで増加したことによる。ところが、四十一年からは長期貸付の増加テンポが短期貸付の増加を上回っている。ただ厳密にいうと四十一年は、年賦償還貸付の償還が滞ったことが残高増の原因であり、新規貸付はさほど増えていない。翌四十二年以降に年賦貸付は本格的に伸びていく(白木沢旭児 北海道拓殖銀行と金融市場―日露戦後を中心に― 札幌の歴史二五号)。ともあれ一九〇七年恐慌の時期は、短期貸付は不振であった。この状況が一変するのが第一次世界大戦であった。大正五年の法改正も相俟って長期貸付の比率は激減し、絶対額でみても四、五年は前年比マイナスであった。長期貸付残高は、農業金融という性格とその長期性によって、残高が累年安定したペースで増加する傾向がみられる。これに対して、商業金融という性格の強い短期貸付は、景気変動の影響を受けて増減したということができるだろう。
 ところで、大正五年法改正では緩和されたとはいえ、短期貸付残高は長期貸付残高の三分の二を超えない範囲という制限が付されていた。実際にこの比率を計算してみると、大正五年四七・五パーセント、六年六三・八パーセント、七年七六・九パーセント、八年七五・四パーセント、九年四八・〇パーセントとなる。大正七、八年は制限を超えて短期貸付が増えていたのである。
 拓銀の本来の業務は、農業のために長期資金として不動産(土地)抵当貸付を行うことであった。しかし、商業金融としての側面の強い短期貸付が、とりわけ第一次世界大戦期に制限枠を超えるまで展開してきたのである。普通銀行の場合、貸付の大きさを測る方法として預貸率が使われる。これは、吸収した預金残高に対する貸付残高の割合で、銀行経営の安定度の尺度でもある。ただ、拓銀の場合は、他の特殊銀行と同様に預金が運転資金の主要な源泉ではなく、むしろきわめて小さな意義しかもっていなかった。農工銀行の研究に学び、資本金、積立金、準備金、債券、預金を「貸付可能資本」とみなし、貸付可能資本に対する貸付金の比率を算出したのが表15である。まず、資産合計は、設立時の三一〇万円から逐年増加を続け、大正九年には一億一二二九万円と約三六倍化を遂げている。貸付金をみると、長期貸付は大正四、五年に前年比マイナスとなるものの、この期間全体としては約九三倍化、短期貸付は明治四十一、四十二、大正九年に前年比マイナスとなるものの、全体としては六七一倍化を遂げた。大正二年凶作と第一次世界大戦初期に農業金融が、一九〇七年恐慌期と戦後恐慌期に商業金融が減少しているとみることができるだろう。
 さて、長期貸付、短期貸付、貸付合計の銀行経営からみた水準はいかなるものであったのか。普通銀行の預貸率にかえて、「貸付可能資本」に対する貸付金比率を表15では貸付金比率Aとしてある。これをみると、初期の二年間を除き、大体八〇パーセント前後であることがわかる。普通銀行の場合、預貸率は八〇パーセント程度が適当であるといわれているので、拓銀も安定した水準を維持したとみることができるだろう。
表-15 拓銀の主要勘定 (単位;千円/%)
資産合計貸付金払込資本金
拓殖債券
積立金準備金繰越金⑥預金⑦貸付金
比率
貸付金
比率
貸付金
比率
長期貸付
短期貸付
小計
明33年3,100658447031,050155262.9%61.8%84.6%
343,3601,406931,5012,0985021963.465.542.5
353,6371,8182852,1032,10012340180.181.871.1
364,0922,2384082,6462,70019374772.777.454.6
374,4352,8605263,3862,7001441,23083.1100.642.8
387,3133,9301,4065,3362,7008002022,78682.2106.250.5
3910,4185,0491,8166,8653,0048003133,53089.8122.651.4
4013,7757,3572,6409,9963,5003,2304463,97189.7102.566.5
4115,3138,9582,13711,0953,5004,6485744,74082.4102.745.1
4218,26211,4971,74213,2393,5006,5286936,23178.1107.228.0
4320,97112,8201,90114,7203,5007,0967337,64277.6113.224.9
4423,69115,4472,09017,5373,9009,3329128,73076.7109.223.9
4527,09617,6692,50220,1713,90013,7951,0826,35080.394.139.4
大2年31,63221,3003,03524,3354,50015,5351,2978,60781.399.835.3
336,69023,9672,86926,8364,50019,7471,4199,40176.593.430.5
439,82923,7813,93127,7624,98819,9451,65111,68872.589.533.6
545,36922,51610,69533,2115,00020,9021,80415,62376.681.368.5
656,43323,68315,10138,7846,25022,3601,93318,94978.477.579.7
773,63831,65824,34556,0036,25028,2962,35528,61885.585.885.1
894,50443,52032,82276,3428,74438,6932,53637,48387.387.187.6
9112,28561,44429,51190,95510,00058,6902,80735,16385.385.983.9
1.代理店貸付,代理貸付は含まず。
2.荷為替手形,割引手形も短期貸付に含む。
3.「長期貸付」は年賦償還貸付金・定期償還貸付金,「短期貸付」は「長期貸付」以外の貸付金。
4.「積立金,準備金,繰越金」は損失補塡準備金,配当平均準備金,特別積立金,前期繰越金。
5.「貸付金比率A」は③/④⑤⑥⑦,「貸付金比率B」は①/④⑤⑥,「貸付金比率C」は②/⑦。
6.北海道拓殖銀行『営業報告書』(各期),『北海道拓殖銀行史』より作成。

 次に着目したいのは、長期貸付の貸付可能資本に対する比率(貸付金比率B)である。長期貸付は、その性質上預金ではなく資本金、拓殖債券、積立金などを原資としていたので、分母から預金を除いて計算した。貸付金比率Bは、日露戦争期から一〇〇パーセントを超える高い水準を示し、大正期に入り低下している。日露戦争とその後の不況期に、貸付可能資本の限度を超えて長期貸付が行われていたのである。一〇〇パーセントを超える分は、預金の一部を充てていたことになる。このことから、拓銀は長期貸付を積極的に展開したといってよいだろう。一方短期貸付は、預金を分母にした貸付金比率Cに示される。これはきわめて低い水準で、しかも明治四十四年までは低下傾向をたどっている。そして明治四十五年以降増加し、第一次世界大戦期には八〇パーセントを超える。これは、四十四年の法改正で割引手形を業務に加えてから順調に伸びたことを示している。第一次世界大戦期には、長期貸付、短期貸付の貸付可能資本に対する比率がほぼ等しく均衡が保たれている。これを可能にしたのは、拓殖債券の急増により長期貸付をまかない、預金の急増により短期貸付をまかなうことができたからであろう。このように拓銀は、特殊銀行の特権である債券発行と、本来は普通銀行の領域である預金獲得の双方を行うことにより、長期貸付(農業金融)と短期貸付(商業金融)とを両立させることができたのである。