この戦闘は日露戦争史に残るほどの大きな激戦や戦果ではなかったが、旅順港の陥落を見越した報道もあって、〝戦勝〟に飢えていた市民は祝賀会に飛びつき、祭りのように狂喜したのであった。
その後は「旅順陥落近し」の報が流れ、市中では再び祝賀会の準備に余念がなく、公報の到着を鶴首する状況であった。そこに遼陽陥落の報が九月一日の夕方に伝えられ、一転して遼陽陥落祝賀会に代えられて開催されることになった。北海タイムス社前の大アーク灯が点火され、大通と中島遊園地で何発もの花火が打ち上げられ、各軒先には国旗、球灯が一斉に飾られた。提灯行列も繰り広げられた。九月五日に大通西五丁目で戦勝祝賀会が開催され、そのあと祭典区毎や円山・札幌村などの仮装行列、夜には提灯行列へと続いた。第二五聯隊のある豊平村でも「開村以来の盛会」というさかんな祝賀会が挙行された(北タイ 明37・9・7)。