「陸海軍御用ハ織物生産高ノ大凡九分ヲ占ム」(帝国製麻株式会社一覧)といわれた北海道製麻会社は、ズック・テントなどの原材を供給する〝軍需会社〟であった。三十六年八月の不況時に二三〇人の職工を解雇して、六八〇人の職工数となっていたが、開戦とともに繁忙をきわめ増産体制に入った。職工もふだん一二時間の労働時間のところ、三時間増しの一五時間労働を強いられる状況となっていた。このような増産体制も、「必死と就業為し居るも尚ほ総ての需要を充たす能はさるの有様」といわれていた(北タイ 明37・9・30)。事業拡張のために十二月には一〇〇人ほどの職工を募集し、三十八年二月現在の職工数は八〇九人(男工一八五人、女工六二四人)となっていた。
過酷な一五時間労働を強いられながらも、職工たちの〝銃後意識〟は強かったようである。製麻会社では単独で三十八年一月四日に、北七条東一丁目と中島遊園地の間を往復して旅順陥落祝捷行列を挙行した。その時の模様は、「同会社の社旗と祝捷旗を真先に押し立て、女工連の娘子軍一隊約一千人に続て同会社員一同仮装をなし、底抜け屋台にて囃子立て盛んなる行列を催うし」と報じられている(北タイ 明38・1・5)。またその折に合唱された社歌には、
陸に兵士を憩はする 幕も我織る麻布ぞ
道に信書を運ばする 囊も我織る麻布ぞ
祝へや国の万歳を 歌へや我社の万福を
と、兵士の使用するテントに思いを馳せ、「国の万歳」がうたわれていた。