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職工の募集

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 紡績業は機械化されていても、主要な作業は人力に依存していた。そのために大規模工場では多人数の女工を必要としていた。北海道製麻会社では少ないときでも約五〇〇人、多いときには一〇〇〇人にも達する女工を雇用していた。同社は明治二十二年に操業開始したが、女工は当初、京都府、滋賀県、九州方面で募集されており、二十七年からは北陸地方を加え、ついで三十年頃からは北陸、東北地方を中心に募集をしていた。募集は派遣社員、現地の斡旋業者により行われ、斡旋料は三十三年の場合、一人三円であったという。
 ただし常に順調な応募があったわけではなく、北海道製麻会社の悪評も災いして不調なことも多かったようである。特に三十三年の募集はまったく不調で、北越地方では一人の応募もなく、ようやく東京方面で一〇〇人の応募をつのるも、船中で乗客から同社の「職工虐待」のことを聞いたため、小樽に上陸するや六〇人が「逃亡」したという(道毎日 明33・7・18)。また、同社の募集法は「乱暴無造作」であり「駈落者の収容所」といわれており(北タイ 明40・3・2)、質の高い労働者を募集する姿勢に欠けていたことも指摘されている。
 帝国製麻会社(明40・7)となってからは、山形市と宮城県松島村に募集事務所が置かれ、各地に募集特約員を置き、募集に当たるようになっていた(北タイ 明42・4・10)。そのために東北地方の出身者が多くなり、明治四十四年の寄宿舎住まいの女工は二八〇人のうち、宮城県一八九人、岩手県三七人、青森県三三人、その他三一人となっている(工場要覧)。
 募集の契約がまとまると支度料と旅費などが前借金となり、さらに各家の事情によっては四〇円までの前借が行われていた。三年間の勤続が契約となっており、特別な場合を除き中途の退職は認められなかった。退職する場合も前借金や募集経費の返済まで要求され、退職も簡単にはいかなかったのである。まことに女工は前借金にしばられた三年間の「年期奉公」であった。職工の毎月給料の一割には強制的に社内貯蓄(会社が六分の利子補給)が課せられ、三年間は下ろすことができなかった。これも一面では「逃亡」と前借金の貸し倒れを防止する〝質〟であったといえよう。