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賃金問題と労働時間

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 製麻会社の労働賃金問題についてみると、例えば「製麻会社の職工虐待」(道毎日 明30・4・9)では、
種々甘言を以て内地府県及此地にて募集せる職工に対し、約束の給金も種々の名儀にて其半ばを刎ね去り、病傷等の場合には死ねよかし斃れよかしに取扱ふなど、其内幕言語同断の始末……

と報道している。前者の給金の「刎ね去り」については、募集した社員が「賃金の高貴収入の多大を説」いたり、「周旋屋の口車」の問題もあったようであり(道毎日 明31・4・27)、募集時に示された賃金と実際の手取りが相違しており、常にトラブルが発生していた。
 三十一年当時の日給は男工二七~五〇銭、女工一六~三五銭であったが、平均は男工三八銭、女工二三銭であった(道毎日 明31・11・19)。しかし新採用の女工は一六銭であったが、寄宿舎の食費は一日一四銭であり、手許には幾許も残らない状況であった。このことなども募集時の内容と異なっていたようである。薄給と寄宿料の高額に耐えかねて下宿住まいにするものや、売春に走る女工もいた。
 賃金の昇給に対する不満が高まり、鉄工組合の活動が活発となって同盟罷業の動きがみられるようになった三十三年十二月に、会社では精勤者の昇給を三カ月毎に、夜間就業者の賃金を一割増に、新採用者は三カ月後に男工は三五、六銭、女工は二七、八銭に昇給するなどの待遇に改めている(道毎日 明33・12・30)。
 その後四十年代に入ると、日給も以下のようにやや上昇をみせている(四十年―北タイ 明40・11・23、四十四年―工場要覧)。
         四十年   四十四年
  男工 最低  三〇銭    二〇銭
     最高  八〇銭  一円二五銭
     平均  四八銭    五一銭
  女工 最低  一八銭    一四銭
     最高  四五銭    五二銭
     平均  二四銭    二八銭五厘


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写真-6 大正7年頃の帝国製麻札幌工場の内部と女工

 労働時間についてみると、昼業と夜業の二種あり、昼業は午前六時から午後六時までで、この間に正午の昼食時間が四〇分、午前九時と午後三時に一〇分間の休憩時間があり、正味一一時間の労働時間であった。このように長い労働時間を強いられ、食時・休憩時間は短く、繁忙期には超過勤務も常態であったようである。また一週間おきに午後六時から午前六時までの夜業がある昼夜交代制であった(夜業は四十年代に入り中止された)。
 このような過酷な労働条件に耐えられず、「逃亡者」も頻々であった。「同会社は男女職工等の使役過酷なるより約定期間、其業務に服する能はずして失踪するものあり」といわれているように(道毎日 明32・8・27)、三年間の「約定期間」をまたずに「失踪するもの」も多数に及んだようである。事実、後述のように約六割までが三年以内に退職しており、三年間を勤め上げるのは至難のことであった。