寝所の如きは昼勤者が寝た跡へ夜勤者が寝る有様なれば、何時も敷き詰めにて室内の如きも掃除する事絶えてなく、従って非常の不清潔なるより以上の病気発生したるなるべく……
とされており(道毎日 明34・8・9)、寄宿舎の衛生管理の不十分な点が原因であったとみられる。
三十三年の場合は職工の外出禁止、工場・寄宿舎での水使用の禁止、消毒・掃除の執行などの対策をとっていたが(道毎日 明33・9・30)、多人数の閉ざされた集団生活だけに、流行病がひとたび発生すると感染は速く広い範囲にわたり、恐ろしいほどの猛威をふるった。
過酷な労働や不衛生などで体がむしばまれ、病気となるものも多かった。当時は不治の病とされ、感染が最も恐れられた結核などもが多かったとみられる。しかし病に倒れても十分な治療も与えられず、国許へ返されるのが常であった。三十五年十一月に「病気に罹り治療を施せしも全治の見込なき」女工二〇余人が国許の青森・岩手・宮城県に「送還」されている。彼女らは三十三年に募集されたものであった。他にも北陸地方で募集した職工の中にも、「病気の為め労役に堪へさる者数十名あり。是れも近々送還する筈」であったという(北タイ 明35・11・30)。ここには労働者を〝消耗品〟とみなし、〝労働力〟とならぬものはたちまちに捨てさるという、非人道的な資本主義の論理がみてとれる。
会社では寄宿舎住まいの職工の疾病には、「薬餌料、入院料一切本社に於て貸与し療養上遺憾ならしむ」ことをうたっていたが(道毎日 明33・1・26)、実際は十分の手当も受けられず、薬代も請求されたようである。三十年四月に女工が死亡した折には、「偽病」視されて手当もされなかったという。ただし労働者の保護が叫ばれるようになった帝国製麻会社の頃には、医療の点ではかなり改善されたようである。『工場要覧』によると、女工の一日の患者割合は以下の状況であった。
割合 女工数 一日患者数
四十二年 一・九パーセント 三五五人 六・七人
四十三年 二・五パーセント 二六九人 六・七人
四十四年 三・四パーセント 二八七人 一〇・七人
重傷患者はすでに解雇されて国許へ帰されるか、病院に入院することになるので、ここからは単純に女工の健康状態を読み取ることはできないが、例えば四十四年の数値でいくと、女工一人当たり年に一三・七日間の「患者」となる勘定である(一〇・七人×三六五日÷二八七人=一三・七日)。女工は休業すれば日給を失うだけに、よほどのことがない限り「患者」とはならないから、実際にはこの日数以上の不調の日があったはずである。この点を勘案すると一三・七日という「患者」日数は、女工の決して良好な健康状態を示しているとは思えないのではないだろうか。