札幌鉄工支部は岩元、本間諸氏非常の尽力にて漸次盛大に趣きたるか、今年早々は同市深野鉄工場の職工五、六十名入会することになり愈北海労働運動の中心とて大運動を始んとす。農学校の蠣崎知二郎氏は非常に尽力せられ真に仕合だ。
これによると製麻会社だけではなく、深野鉄工場の職工も参加し、支部の運動に広がりをもっていったようである。また会社では三十三年夏に、一月一日施行に繰り上げた「疾病其他困厄ニ罹リタルモノヲ救済スル」目的とする職工共済会規則を制定している(労働世界 第六四号)。規則制定の背景には職工たちの待遇につき、会社への不満があったことは確かである。「製麻会社の職工激昂」と題した報道(道毎日 明33・7・27)では、
と伝えており、「同盟罷工」に訴えようとする動きもあったようである。この中心となったのは、当然組合支部であったろうから、これも組合支部の大きな成果とみなすことができるだろう。だが、鉄工組合の運動は、三十四年頃にはすでに退潮化をみせはじめるので、第三十五支部も間もなく解散となったと思われる。鉄工組合第三十五支部の活動は以上のようにきわめて短時日であったが、それでも弱い立場の職工たちが団結した初の組合としては画期的な意味をもっていた。
なお、製麻会社における同盟罷工の動きは、すでに二十九年九月にも、賃金値上げの要求を拒否された上で物価上昇により寄宿舎の「賄を粗末」にされたため、「多数の男女職工は大に激怒し同盟罷工を為さん」とされたことがあった(道毎日 明29・9・26)。また三十一年にも女工たちが寄宿舎の待遇改善を求め、「同盟罷工を企てんと専ら協議中」ということがあった(道毎日 明31・4・27)。二十年代後半から会社に対する数々の不満が高まり、第三十五支部の結成にむすびついたのである。