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拓北農場の争議

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 三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎の弟で、三菱合資会社社長であった岩崎久彌が、札幌郡篠路村字興産社に所有する面積一〇五〇町の大農場、拓北農場篠路支場(通称岩崎農場)において、その所有権を多くの仲介者を経て最終的には転売する問題をめぐって一大争議が発生したのは、大正九年(一九二〇)一月から二月にかけてのことであった。
 すなわち同年二月七日付の『北海タイムス』は、「篠路の百姓一揆/百数十名の小作人旧拓北農場事務所に押寄す/小樽三菱支店長と交渉」との見出しで次のような記事を掲載した。
篠路村旧拓北農場小作人六百余名は、死活に関する大問題突発以来狼狽一方ならず、俄に小作人大会を開き交渉委員を上京せしめて、旧地主岩崎男爵に事情を訴へ、同家小樽支店に向って強硬なる談判を開始せる事は既報の如くなるが、問題は益々火の手を拡げつゝあり。探知する処に依れば、其後東京岩崎邸より正木重役出樽し、男爵より心付金として旧小作人一同へ一万五千円並に同農場販売組合に対し一千円同消防組へ五百円を提供して問題に鳧を付けんとせしが、意外にも新地主たる某氏が同農場経営の方針として牧草を播種するの計画ある事を知れる小作人側は仰天し、斯くては自滅の外なしとて、此場合一万五千円位の涙金を貰ふも如何とも方法なければ、委員等は再び出樽し、一万五千円は一先づ事件の落着するまで小樽支店長田中丸氏に預け置く事とし、新地主との間にも往復して救済策の研究に腐心居れり。一方同農場は表面釧路の神氏が岩崎家より直接譲り受某々氏に売渡せるやうになり居るも、内幕は事実札幌某氏が最初の買人にして神氏は単に名義を貸したるに過ぎず、(某氏より神氏へは一万数千円の報酬を贈りたりといふ)其売買地代金は二十万円内外を出でず、然るに某氏は更に是を札幌区内某氏へ四十七万円にて転売せるものにして、其差額金二十数万円を獲得せり。最も此間に幾多の関係者介在する様子なるが、新地主も始めて消息を知り痛く小作人連の境遇に同情を寄せ居るも、何分巨額の資金を投ぜる以上同農場を経営せんには牧草を播種するの外なしと語り居たり、斯くて四名の委員は去三日帰村後直に小作人一同を招集し事件の成行を報告せしに、小作人等の激昻甚だしく、農場事務員の冷淡なる行為を憤り、各委員の制止するをも聞かず百数十名一時に雪崩を打って茨戸事務所へ押寄せたり。折柄当日は事務所に於て農場関係者を招待して盛に送別の宴を張り居りし真最中に、詰寄せたる一同は「事務員を呼べ」「主任を引摺り出せ」と怒号し騒然たる有様に、席に有りし佐藤農場主佐藤金治氏出で来り、模範農場とも称さるゝ岩崎農場に斯の如き不祥事を発生せる事は誠に苦々しき事なりとて一場の皮肉演説をなせるより、一同の気勢を煽り事態容易ならざる模様なるより、臨席せる松尾村長仲に入り責任を負ふて調停を図る事に努むべしとて漸く一同を鎮撫散会せしめたるが、小作人等は更に各所に集合して密々善後策を講じ不日再び委員を上京せしめ岩崎家に事情を訴へんと敦圉居れり

 この記事では、なぜか関係者の氏名、とりわけ新地主のそれが伏せられているが、この前後の記事にはいずれも実名で登場する。その点はさておき、この記事によれば、「既報」のように拓北農場の転売問題の発生以来、小作人側は交渉委員を東京に派遣して前所有者の岩崎家に陳情し、また三菱商事小樽支店長の田中丸勘七に対して「強硬」な談判を開始したという。その結果、農場の所有権問題は複雑化してゆき、岩崎家側では小作人たちに合計一万六五〇〇円の「心付金」を支払ってこの問題を処理しようとしたが、「新地主」が「牧草を播種する」計画であるらしいこと、また「新地主」と岩崎家との間に幾人もの仲介者がいて巨額の資金が動いていること等が明らかとなり、二月三日にいたって、小作人たちが農場事務所に乱入するという事件が発生したというのである。