写真-9 拓北農場の争議を報じた記事(北タイ 大9.2.7)
その後、小作人代表の西村鷹次郎以下四人は岩崎家との交渉の必要性を感じ、「円満なる解決を遂ぐるまでは再び帰村せず」と「誓約」して、二月十日再び上京した。そして、約一カ月間旧地主の岩崎久弥側や中間購入者の三井徳宝などと交渉の結果(北タイ 大9・3・9、4・21)、三井から一時金六万円を受け取ることで農場の転売を承認した(篠路農業協同組合三〇年史)。この間、小作人側は先の決議文にもあるように、農場解放の要求も持ち出しているが、それは岩崎家側の反対もあって実現しなかった。このようにして、争議は一応「円満解決」となり、小作人一同は四人の交渉委員に金時計を贈って謝意を表したという(北タイ 大9・4・21)。もっとも、委員の一人であった喜瀬藤松の関係者によれば、「一時金の配分に先だち、このなかから割いて購入した金側時計を交渉団に贈り、残余の人たちも銀側時計を購入した」(篠路農業協同組合三〇年史)というのが実態のようである。なお小作人側の代表となった四人であるが、昭和八年四月、篠路村内の烈々布、学田、篠路農場の三つの産業組合が合併して篠路村信用販売購買利用組合が設立された際、いずれも篠路農場組合理事を務めている(篠路村信用販売購買利用組合 創立十周年記念誌)。また昭和十八年現在の同組合への出資金をみても、森田宇蔵は七口、二五一円三五銭、喜瀬藤松は二口、六八円二銭(以上横新道農事実行組合)、宮西頼一(釜谷臼農事実行組合)は五口、二二一円一〇銭を出資しているなど(組合員出資貯金持分表 昭和十八年度末現在)、拓北農場の小作人のなかでもその中心人物として、指導力を発揮するだけの実力を持ち合わせていた人物のようである。
最後に新地主となった吉田善助のことであるが、最初は畑作経営を行っていたものの、大正十三年に拓北土功組合を設立して畑作から米作への転換をはかった。しかし昭和初期の凶作や水害で土功組合の債務は増加の一途をたどり、吉田は組合長を辞任してしまった。そして昭和十四年には、その農場も北海道拓殖銀行の所有と帰したのである。