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丘珠村の争議

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 篠路村・拓北農場の争議が発生した二年後の大正十一年(一九二二)、隣村の札幌村でも小作争議が起こった。『北海タイムス』(大11・4・5)は「丘珠の小作人騒ぐ」との見出しで次のように報じている。
   丘珠の小作人騒ぐ/大地主許士対(ママ)の紛擾/札幌署長の仲裁で漸やく納る
大正九年中より札幌郡丘珠村御料地四十八町歩の払下説が伝はり、小作人等十七名は逸早く結束して信愛会を組織し、小作名義人なる許士善太郎を排斥して払下を受けんとし、先づ一同は運動費を約一千円醵金し、多賀源蔵外二名を運動員に挙げ其筋に出願せるを、善太郎は推察し同じく帝室林野管理局に出願したるが、本年二月八日付を以て右御料地四十八町歩は三万二千八百七十七円にて善太郎に許可となれるより、小作人等は躍起となり東京方面よりブローカーとして旭川御料地払下運動に同地に到れる堀清、横田星一両名に依頼し、前記多賀始め北脇林蔵、泉野和平三名と共々上京の上宮内省に極力運動を開始せるも、其甲斐なく空しく帰村したり、然るに善太郎は該小作人一同を解雇せんとしたるに小作人側は肯ぜず紛擾を重ね居たるが、結局札幌署に願出て薦田署長に調停を依頼したれば、同署長は先づ善太郎に対しこの際小作料の値上を為さざる事を誓はしめ、一方小作人に対しては本年度の小作料は四月中に前納する事、未納者は直に完納する事等を言渡したるが、四日右小作人一同は同署に到り、爾後団体を解散して積立金を分配の上各自善太郎に懇願する事を声明して引揚げたり。