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許士農場の設立

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 この記事にもあるように、争議の起きたのは札幌村大字丘珠村にある許士農場においてであった。当事者である許士善太郎の父親は許士泰といい、開拓使時代の明治八年十一月、同使のお雇い清国人農民一〇人の一人として二二歳で来道し、丘珠に入植した人物である。開拓使との契約期間は三年間で、清国の養蚕や農業技術を普及するのが目的であった。給料は月俸五円七五銭で、土地、家屋、農具、馬などが貸与された。契約終了後、八人は帰国したが、許士泰范永吉(明36、栗沢村に転出)とともに残留し、十二年には日本に帰化し、篠路の日本人入植者瀬川喜弥太の長女イシと結婚した(札幌人名事典、お雇い外国人⑬開拓、東区拓殖史)。開墾に対する許士の熱意と指導力によって次第に周囲の信望を得るようになり、明治二十年頃には御料局所管の耕地約五二町の開墾と管理を委ねられるようになり、事実上の許士農場を開いた。ただし一般には以後も「御料地」と呼ばれていた(東区拓殖史)。
 許士の農場には約一五戸の富山県出身の小作人がいて、雑穀、燕麦、大麦、小麦、玉葱などを栽培していたという(同前)。そして大正二年七月の許士泰の死後、その二男善太郎がこの「丘珠御料地」の払下げを申請したことから小作人たちとの間に問題が生じ、争議が発生したのである。