ビューア該当ページ

神楽村御料地争議との連動

467 ~ 467 / 915ページ
 この旭川御料地払下運動とは、当時大問題となっていた神楽村御料地の解放闘争のことである。十一年二月二十三日には、旭川区の錦座を会場として組合設立のための農民大会が開かれており、神楽村御料地の小作人三〇〇余人、下川村の天塩御料地の小作人代表若干名が参加していたが、そこに招かれていたのが東京の官業労働総同盟幹部であった横田晃一と堀潔であった。『北海タイムス』の報じた「横田星一」「堀清」のことである。こうした神楽村の小作人と全国的な労働運動の結び付きに驚いた村当局や警察は小作人側に圧力をかけ、争議への介入と調停に乗り出した。そして二月二十八日当事者間の妥協が成立したため、横田と堀は神楽村を退村、帰京したが、堀は旭川に残って東京との連絡にあたった(金巻鎮雄 北海道御料地争議の顛末)。
 したがって、丘珠村信愛会に結集する小作人たちが、横田と堀に争議への支援を依頼したのはその後ということになる。この『北海タイムス』の記事では、丘珠まで指導に来てもらったのか、東京での陳情運動に協力を仰いだのかは不明であるが、三月十七日には「妥協」に納得しない神楽村の小作人代表が上京して、帝室林野局の山崎長官に直接交渉を行っており(同前)、おそらくこの時に支援を受けたものと思われる。
 この許士農場の争議は、その後警察の調停のもとに十一年四月四日、小作人側が信愛会を解散し、「各自善太郎に懇願する事を声明」して結末を迎えている。しかしその過程で、横田晃一や堀潔といった東京の「労働ブローカー」をパイプ役として、神楽村、下川村の各御料地小作人と丘珠の御料地小作人とが、一種の連携的活動を展開していた事実は重視する必要があろう。つまり許士農場での小作人たちの争議は、いわば全道的な御料地解放闘争の一環を形成していたのである。