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蛎崎知次郎と西川光二郎

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 札幌の人びとに社会主義思想が紹介されたのは、日清戦争の頃であった。日本の社会問題は明治二十三年(一八九〇)の不況以後深刻化し、新興都市である札幌にも貧困者が増大し、貧困問題の解決が街の重要課題になっていた。新渡戸稲造が二十八年に開設した夜学校も、貧困者救済のための施設であった。
 札幌農学校に在学していた蛎崎知次郎と西川光二郎は、社会問題に関心が深く、社会主義思想にも興味を持ち、新渡戸稲造から社会主義思想を学んでいた。西川光二郎は社会主義思想を広めるため、学友に社会主義思想を説いたが、同期生のリーダーであった伊藤清蔵など秀才グループは、社会主義に反発していた。西川は社会主義思想を本格的に学ぶため、農学校を退学し東京専門学校に入った。家の貧しい蛎崎は給費の関係もあって札幌にとどまった。
 二十九年八月、第二回夏期講話会(市民講座)で、新渡戸稲造が「社会党の話」と題して社会主義思想の解説を行った。新渡戸は「経済上より改革を施し、貧富の差を円滑にするのが社会党の目的で、暴力をもって政府を転覆したり、人の財産を奪い、これを分配するような行為は、無政府主義者や虚無党の運動であり、社会党の運動とは言えない。私は真正の社会党には隻手をあげて賛成する。一は道徳宗教上より欲心を抑制し、一は学理の上に訴えて、貧富の差を円滑に調和せしめん事を望む」と述べた。しかし社会党、虚無党、無政府党、共産党の区別は市民には難しかった。学生すら区別ができなかった。
 蛎崎知次郎は札幌農学校の学芸会大会で社会主義を論じ、学校の雑誌に社会主議論を発表した。過激な言論は賛否さまざまであった。
日本の社会は社会主義にあらざれば亦た救済すべからざるなり──富豪輩驚戒せよ革命の爆裂弾は先づ汝の頭上に落ち来らんとすることを
(蛎崎知次郎 螻蟻の一言 学芸会雑誌第二五号 明31・2)