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社会主義者と米騒動

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 大正七年夏の札幌は、開道五十年のお祭りムードが充満していた。その頃全国に米騒動が広がっていた。
 米騒動に関して在札社会主義者がどのような反応を示したかははっきりしない。ただ古くからの新聞記者吉田重貞(辰蔵)が、米騒動に関するビラを配布しようとして中止を命ぜられたことが伝わっている。
 小樽高等商業学校の生徒だった南亮三郎は、九月二十日の『小樽毎夕新聞』に「社会主義者を検挙する前に」と題する米騒動に関する意見を発表して、筆禍事件を起こした。
 だが、北海道帝国大学の学生には米騒動に関して大胆な意見を発表した者はいなかった。北海中学校の弁論部の幹事であった川俣清音も、まだ社会問題に関心がなかった。
 八月十六日に中央創成小学校で開催された早稲田大学講演会は二〇〇〇人の聴衆を集めたが、外国との関係を論ずるにとどまり、米騒動をはじめとする日本の現実に触れなかった。