以上みてきた烈々布の青年会の変遷は、若連中・青年会と呼ばれた自主的な団体に官製の要素が入ってくる変化の一事例であった。これ以外にも日露戦争以前、明治二十年代からの青年会としては、白石村青年会、豊平村青年者同窓会、苗穂村青年講談会などがあったが、これらの団体では雑誌・新聞の閲覧、あるいは文芸の創作活動や学習会といった青年の文化交流がみられた(市史 第二巻)。
また藻岩村伏見では、若衆連時代には春秋の「篭洗」において、「力石俵扱ひ臼担ぎ棒押角力脛押首引き等極めて単簡なる力術」や「〓そばやより酌婦を連れ来り酒間を斡旋せしめ飲且つ食ひ歌ひ踊り前後二日の歓楽を極め」ていた。やがて明治三十年旧暦の八月十二日の氏神である大山祇大神祭典の盛大な挙行に際し、青年会が組織される。会則では、「勤倹親和の風」の培養のため毎月五銭ずつ貯蓄することとなり、「篭洗」は廃止になり、夜学が開設されるなど、青年会は自主的に「修養と勉学」の組織となってゆく(伏見史稿)。
しかし明治後期の青年会の活動は、いまだ実態としては、総じて村内の娯楽や教育・文化活動に力点がおかれていたといえよう。明治四十四年六月の『北海青年』の誌上において留岡幸助は「農村青年の娯楽」と題し、「一国文野は、其国人の娯楽の程度を見てもわかる。野蛮人には娯楽が小く且つ其の性質も単純であるが、文本の進むに従うて娯楽の種類が多くなり且つ其の性質も複雑となる」といった文明観に基づき、娯楽として改良すべきものとして、芝居・講談・小説の三つをあげ、これらは社会改良上、大きな感化力を発揮すると説く。また四十四年頃の上白石青年親友会々則の目的をみても、「会員相互ノ親睦ヲ旨トシ智ヲ進メ徳ヲ積ミ体ヲ練ル」とうたい、年四回の雑誌の編集、演説会、書籍の購入・回覧、遠足・運動・旅行などの活動を定めている(北海青年 明44・6月号)。
そして日露戦後、三十八年九月の内務省の「青年団ニ関スル件」以来いくつかの布達がでるが、札幌および周辺諸村における官製の青年団形成の契機という点では、大正大礼の年、大正四年九月に内務・文部大臣から出された「青年団ノ指導発達ニ関スル件」の訓令および同年十一月の北海道青年会連合大会が大きな画期となった。