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貧困者の群

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 札幌の南一、二、三条東五丁目の豊平川堤防付近には、明治三十四年段階に貧困者が十数戸かたまって暮らしていた。その様子は、「中には鶏豚を飼う者あり、或は小屋料一夜二銭五厘乃至三銭を取りて貸与し、区税を免かれ居る者ありて、乞食の数は七、八十名にあまり、其不潔云はん方なし」といった具合であった(道毎日 明34・6・5)。これに対し、札幌警察署では退去または借家を捜して転居命令を出した。しかし、彼らには行き場がなかった。
 大正期に入ると、当時の新聞は毎年暮れに近づくと「貧民窟」探訪をし、その実況を述べるようになる。大正二年には、苗穂町二三番地およびその付近の貧困者たちを質店主の目を通して間接的に伝えた。そこでは、彼らの質草となるようなものは夜具、布団、鉄瓶くらいで、鍋、釜は質草にもならないと述べている(北タイ 大2・12・26)。
 翌三年の場合は、「鳥の巣 枯木寒林に三々五々たる落伍者の群」のタイトルで、労働者に変装した記者が、いわゆる「貧民窟」と呼ばれる「豊平六番地」の木賃宿を探訪して実況した。そこでは、塵芥のなかから食べ物を掘り出し、病院の余り物、料理屋の残飯をあさって暮らす貧困者の群を詳しく述べた(北タイ 大3・12・6)。
 すでにこの頃、「貧民窟」と呼ばれるのは三カ所に増え、東小学校前、豊平橋の袂、豊平郵便局の後方となっていた。それらを探訪して実況した記者は、同情の色を禁じ得ず、「下層民を犒(ねぎら)へ」と次のように訴えた。
彼等は生れながらにして或は不運の者或は不幸災難に遭ひて奈落の底に沈みし者、其因縁の千種万様なるべけれど現実の問題として年の暮無く年の始め無き人々なり。希くば世の仁人卿等の口にする美祿一杯を減じて彼等に一片の餅と数箇の蜜柑と塩鮭の切身と一杯の盛切とを振舞ふ能はざるか。彼等が当面の慰籍は柔しき言葉よりも一杯の酒なり。一片の餅なり。諸君にして哀憫同情の誠意あらば其方法を区役所に托し警察に托し宗教家に托して之を実際化せよ。同情の涙の雫を結晶し実体化せよ。
(北タイ 大3・12・24)

 実際、五年の豊平細民街の場合、おもな職業は日傭労働者、塵芥拾い、藁拾い、残飯売りといった類で、一六五戸ほどが狭い露地にひしめいていた。一日の収入は、市中のゴミ箱から拾い集めて襤褸(ぼろ)は洗濯して一貫匁一二銭、ガラス破片四~六銭、多い日で一日一円くらい、少ない日で五~一〇銭、平均して四、五〇銭くらいとなったが、米は一升につき三銭以上も値上りし、さらに上昇傾向にあったので窮乏は甚しい状態にあった(北タイ 大5・11・23)。