大正期になって、社会事業が積極的に公共団体によってやっと取りあげられるようになった。それまでは、明治初年制定の「賑恤規則」や三十二年制定の「行旅病人及行旅死亡人取扱法」などといった国の法律により、救護・救療を必要とする人びとを手当する程度の消極的なものでしかなかった。
しかし、日清戦争後の景気の後退によって、札幌区にも都市下層のいわゆる細民といわれる人びとが徐々に増加してきた。これらの多くは一定地域に集住し、日傭、屑拾いといった職業につき、その日の糧をしのぐのがやっとといった人びとであった。当時の人びとは、これらの都市下層の人びとに対し、困窮の原因を彼らの怠惰、濫費、卑俗などの性質にあるとし、それが近代化がもたらしたところの犠牲者であるとは見ようとはしなかったので、せいぜい「金持が貧乏人に恵んでやる」といった慈善事業の域を出なかった。このため民間の篤志家か宗教団体の慈善的行為に頼らざるを得ない状況が長く続いた。
日露戦争後あるいは第一次大戦中から大戦後にかけて、本州から本道へ流入する移民数の増加は、景気の変動によってもたらされたものが多く、物価高騰で生活不安を訴える者を数多く輩出させた。このため、大正七年(一九一八)の米価暴騰以後、政府の重要施策のなかに社会事業の積極的推進が取りあげられるにいたったのもこの理由による。
東京府が全国府県に先んじて、大正六年十一月救済課を新設、庶務課に属していた社会事業に関する分掌事項を分離担当、慈恵救済への積極的姿勢を示した。その後救済課は、八年一月社会課に改称された(東京百年史 四)。
北海道庁がはじめて社会課を設置したのは十年一月一日である。その事務分掌として、①賑恤及び救済に関する事項、②感化事業に関する事項、③社会的施設に関する事項、④「旧土人保護」に関する事項、⑤民力涵養に関する事項等を担当した。新設の社会課はその宣伝のために「社会事業懇話会」を発足、七月の例会では札幌区を標準としたもっとも緊急を要する社会的施設の種類と方法として、職業紹介、社会事業委員、幼児教育、公益質屋等について協議した(北タイ 大10・7・17)。それとともに八月には、内務省主催で社会事業講習会を会員を募って開催、講習科目には児童保護、防貧事業、社会教化事業、青年団指導、移住保護、社会衛生、児童心理、社会事業等、社会事業の基礎理論が講義された(北タイ 大10・8・9)。講習会と同時に、社会事業参考資料展覧会も開催され、広く一般の人びとに貧民救済、感化事業、盲啞教育、天災地救助、公営住宅、公設市場、時間公徳尊重、簡易食堂等についての写真や統計類が展示され、社会事業の認識・普及につとめた(北タイ 大10・8・11)。
一方これよりさき民間の慈善団体に、大正三年創立の北海道慈善協会が活動しており、当初会員は四〇人前後であったが、十年九月には三二〇余人に増加していた。同協会は十年八月、北海道社会事業協会と改称、会則を定め、事業内容を、①社会教化の運動、②懇親会の開催、③講演会・講習会の開催、④社会事業の指導誘掖(ゆうえき)、⑤社会事業行政の翼賛、⑥会報の発行、⑦社会事業功労者の表彰、⑧社会事業諸団体相互・篤志家との連絡等とした(北タイ 大10・8・14)。これら二つの団体のうちあとから設立された社会事業懇話会は、北海道社会事業協会と事業内容が酷似していることから、十年十二月北海道社会事業協会に合併された(北タイ 大10・12・23)。
札幌区の社会事業は、道庁社会課の指導を受けながら、十年中に準備しつつ、それまで庶務課で行ってきた社会事業に関する分掌事項を十一年四月分離独立させ、社会係を新設した。