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行旅病人救護所

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 明治三十二年(一八九九)制定の「行旅病人及行旅死亡人取扱法」に基づき、救護・救療を必要とする人びとの収容施設を大通西一九丁目に設立し、四十二年八月、区立行旅病人救護所と称した。日露戦争後、札幌区で救護した行旅病人および精神病者数は年々増加した。表8は、四十年から大正十一年(一九二二)までに救護された人員・救護繰替費を示したものである。救護繰替費をみても大正三年と八年のピークは、前者は凶作の影響が、後者は大戦後の景気の変動が考えられよう。景気の変動はともすれば、本州から流入する移民数を増加させ、貧困者、行旅病人を都市へ集中させた。
表-8 行旅病人その他
収容死亡解救現在救護繰替費
明40107人37人33人29人2,705円360
 411765892514,472.440
 4217767125325,188.130
 431304978233,354.055
 441274180303,553.435
45/大125178162395,296.145
 230278208556,127.260
 3291111207287,311.915
 41234679264,332.000
 51334392244,030.995
 61023769203,321.180
 722344160397,783.540
 8219541722810,410.000
 920655142378,586.470
 10193146847,603.090
 1117235141448,088.730
札幌区統計一班』『札幌市統計一班』より作成。

 この札幌区の時代には、公的無料宿泊施設はまだ設立されていない。その代わりを果たしたのが、大正十年三月、札幌区苗穂町二二番地の民間団体労働革新会支部事務所内に設立された失業者救護所である。十一年一月までに失業者・貧困者三三七人を収容した。多くは区立職業紹介所や札幌警察署、行旅病人救護所から回されてきた人びとであった。健康者は除雪、氷伐り、豆腐製造、製縄等の労働に従事、宿泊は無料で食費一日一七銭を徴収するのみであったが、篤志家の寄付を受けてやっと成り立っていた(北タイ 大11・1・31)。