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遊廓の移転

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 札幌の場合、市史第二巻でも述べたように二十年代から移転論が起こった。それが一段と具体化されたのは、三十四年一月区会へ「遊廓移転問題」が建議されてからである。その理由は、行政の中心都市また学問の都市として将来計画に支障をきたすこと必定というものであった(北タイ 明34・11・21)。しかし、この時点では常設委員に付託と決定、移転地の調査が検討された。同年中に具体的な候補地として、鴨々水門の西南区有地一万八〇九七坪があげられた(北タイ 明34・11・23)。
 日露戦争をはさんで、移転論はしばらく棚上げとなり、開道五〇年記念北海道博覧会の大正七年開催が決定されると、再び遊廓移転論が活発化してきた。四年十二月、札幌区の発展に伴い、土地の買占めが盛んになり、移転地を決定することが緊急を要してきたからである(北タイ 大4・12・21)。五年に入ると、貸座敷移転促進委員の松本菊次郎等が道庁に移転促進を要請した(北タイ 大5・4・21)。翌六年に入ると、候補地として白石と北九条の二カ所があがり(北タイ 大6・3・13)、博覧会会場となる中島遊園地への通路となる遊廓の外観の不体裁さが議論の的になった(北タイ 大6・5・2)。
 結局のところ遊廓の移転は、新たに遊廓地となることにより利権を得る地域の争奪戦となったが、ついに六年十二月十七日道庁告示第七四九号で、移転地を大字白石町の二万五九二坪と定め「札幌遊廓」と称することが決定した(北タイ 大6・12・17)。実際の移転は、八年十一月から翌年十月の間に実行され、二七軒、二一五人の娼妓等をもって「札幌遊廓」として再出発したのである(北海道庁統計書)。
 この時点での札幌の政財界や有識者たちは、残念なことに苦界に呻吟する女性を救済するために「公娼制度」そのものを廃止しようという廃娼論よりは、地方税の好財源として見逃せない遊廓を市街地のはずれに移転するといった存娼論を選択したのであった。